衰退と復活
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1960年代後半以降、ギブソンとフェンダーがエレクトリックギター市場で人気を二分するようになり、グレッチは次第に経営不振に陥っていく。1967年に会社はボールドウィン・ピアノに買収され、また1973年1月にはアーカンソーの工場が火災に遭う。さらに同年12月にも火災が発生。こうした不幸が続く中、1980年にボールドウィンはついにグレッチのギター製造を中止してしまう。 しかし1980年代に入り、ストレイ・キャッツのブライアン・セッツァーがグレッチのギターを使用したため、グレッチへの再評価が高まった。1982年にはチャーリー・ロイがグレッチを買収するが、すぐにボールドウィンに買い戻される。1985年には会社は再びグレッチ一族の手に戻り、1989年からは新たにリイシュー・モデルを中心としたラインナップで製造を再開した。これ以降現在に至るまで、主にグレッチのギターは愛知県蟹江町にある寺田楽器で主に作られていることが知られていて品質への信頼を高めている[要出典]。 2003年にはギター部門がフェンダーの傘下に入り、高級モデルはミリ規格からインチ規格になり、長野県のフジゲンや、アメリカのフェンダー・カスタム・ショップでも作られるようになった[要出典]。また1995年頃よりエレクトロマチック(Electromatic)という廉価版ブランドが誕生。それらは韓国や中国で作られている[要出典]。 2015年にドラム部門がドラム製造メーカーのdwの傘下となったことが発表された。
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衰退と復活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:05 UTC 版)
しかし、休日以外は客足は伸びず、温泉地でありながら湯を楽しむ客よりも宴会客中心の状況が続いた。さらに、ブームは数年しか続かず、増築をした旅館の多くは多額の借金をかかえ混迷が続いた。そんな時代でも1軒だけ客足の絶えない宿があったが、それが黒川温泉の父ともいわれる後藤哲也の経営する新明館であり、現在の黒川温泉の骨子となっている宿泊施設である。 当時24歳の後藤は裏山にノミ1本で洞窟を掘り始めた。「風呂に魅力がなければ客は来ない」と考えていた後藤は3年半の歳月をかけ、間口2m、奥行き30mの洞窟を完成させ、そこへ温泉を引き洞窟風呂として客に提供した。さらに、後藤は裏山から何の変哲もない多くの雑木を運び入れ、あるがままの自然を感じさせる露天風呂を造った。他の旅館の経営者が後藤の教えに倣って露天風呂を造ってみたところ、噂を聞いた女性客が続々と訪れだしたため、後藤を奇人変人扱いし白眼視していた他の経営者たちも彼を師匠と仰ぎ、そのノウハウを請い、実践に移した。 後藤のテーマはただひとつ「自然の雰囲気」であり、現在の黒川温泉の共通理念となっている。温泉は自然に出るのだから、作りも自然にしなければならない、自然を生かすにはどうすればいいのか、客を引き留め、リピーターを確保できる、黒川温泉のセールスポイントは何かを摸索したその答えが、露天風呂と田舎情緒であった。また、単独の旅館が栄えても温泉街の発展にはつながらないと考え、温泉街一体での再興策を練った。その他、様々な案が浮かび上がっては消えるなど試行錯誤の連続であったが、後藤の指導の下、すべての旅館で自然を感じさせる露天風呂を造ることにした。その中で、露天風呂を造れない旅館があったため、「それならいっそのこと、すべての旅館の露天風呂を開放してしまったらどうか」という提案があった。1986年(昭和61年)、すべての旅館の露天風呂に自由に入ることのできる「入湯手形」を1枚1000円で発行し、1983年から入湯手形による各旅館の露天風呂巡りが実施される。さらに、町全体に自然の雰囲気を出すため、全員で協力して雑木林をイメージして木を植え替え、町中に立てられていたすべての看板約200本を撤去した。その結果、温泉街全体が自然に包まれたような風景が生まれ、宿には鄙びた湯の町情緒が蘇った。 この企画も大々的なPRを行わず、口コミによる観光客増加を待つのみであった。またこの頃は修学旅行生も頻繁に受け容れており、手頃さも売りにしていたが、これが結果的に奏功し、リピーター確保につながっている。また、熊本新聞など地元メディアに情報を発信したり、福岡市でPRを行ったりもしている。こうした地道な努力の甲斐もあり、1978年(昭和53年)頃からは旅館への養子縁組やUターンで若者が入り始めた。 「街全体が一つの宿 通りは廊下 旅館は客室」、いつしかこの言葉が黒川温泉のキャッチフレーズとなった。 口コミはインターネットなどでも広がり、ゴーストタウン同然だった当温泉街が人気温泉へと変貌を遂げた。1998年に福岡の旅行情報誌「じゃらん九州発」の人気観光地調査で第1位となった。2000年以後にはテレビ番組や各種雑誌などにも盛んに採り上げられ、一躍知名度は全国区となった。また、その評判は海外にも発信され、今日ではアジア諸国や欧米からの来湯者も多い。 現在[いつ?]では、全国の温泉経営者や旅館組合関係者がノウハウを見学、視察に訪れるようになり、温泉手形による湯巡りは全国至る温泉地で模倣されるなど各地で同様の試みがなされている。
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衰退と復活
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一時期は必勝の戦法とまでいわれていたが、この名人戦での第6・7局で大山康晴が見せた対応策によって手堅く受けられると打開が難しくなる点から、プロの間では一時期衰退した。創始者の升田幸三は升田式石田流や類似戦法のひねり飛車を好んで指し続けたが、体調不良により引退した後は升田式石田流はプロの間であまり指されなくなっていった。 しかし、アマチュアでは根強い人気を誇り、アマ強豪の立石勝巳のように、升田式石田流を元として立石流四間飛車を開発する者まで現れ、プロの小林健二が1994年に立石流を早指し棋戦で連採して優勝したりしたことから見直された。プロ棋士の間でも若手を中心に研究が行われ、鈴木大介・久保利明・豊川孝弘らが升田式に注目。升田式石田流では今まで▲7七桂型が普通と思われていたが、▲7七銀型も有力と見られるようになってきた。 なお、早石田は先手・後手で大きな違いが現れる。急戦法のため、一手の違いが大きく響くからで、後手の早石田は先手と比べてリスクが高かった。居飛車先手の場合は▲2六歩が入っているため、△3五歩に▲6八玉や▲5六歩とすると△3二飛に▲2二角成△同銀▲6五角の筋が利くためで、前後逆の居飛車が後手ならこのとき振り飛車側が▲8五角と打ち返しが利くが、居飛車先手の場合はこの手順が利かない。したがって、後手早石田の際に▲6八玉ならば△4四歩として以下▲2五歩△3三角となる。『イメージと読みの将棋観』(2008、日本将棋連盟)では羽生善治は△4四歩▲2五歩△3三角の順になれば先手がかなり得をしているとし、森内俊之も実践なら▲6八玉を選び、以下△4四歩▲2五歩△3三角▲7八玉で、もし△3二銀ならば▲3八銀とするという。この先手陣の構えは2002年に島朗に対して先崎学が指し、以下△4五歩に▲2六飛△8八角成▲同銀△3三銀▲3六歩△同歩▲同飛以降わずか29手で快勝している。 一方、佐藤康光は▲5六歩や▲6八玉で△4四歩と角道を止めさせる無難な指し方よりも▲2五歩△3二飛と形を決めて▲4八銀の方が相手の突いた3五の歩が伸びすぎで咎めやすいとする。谷川浩司も強く指すならその順であるとしているが、この形は手詰まりになりやすいとしている。藤井猛は後手石田流は先手が▲5六歩や▲6八玉を知っていれば手に困らず先手のほうが手も広く、一方で後手はこれという理想形がない将棋となっているとしている。平成以降2008年までの公式棋戦で後手早石田は50局指されており、先手の30勝20敗となっている。 4→3戦法 その後、飛車を最初から三間に振らずに、四間で途中下車する3・4・3戦法、戸辺流4→3戦法の出現で息を吹き返した。3・4・3戦法は島朗が2002年に出版した「島ノート」で取り上げられた戦法で、▲7六歩△3四歩▲2六歩△3五歩▲6八玉△4二飛▲4八銀△6二玉▲7八玉△7二玉▲5六歩△3二飛が組み手順の一例。この△3五歩、△4二飛、△3二飛の頭を取って3・4・3戦法という名前がついたわけである。石田流に対する▲6五角問題を△4二飛と途中下車でクリアしたことで、後手石田党への福音となったのである。これらは後手番であえて手損をすることで先手に形を決めさせ、▲6五角問題の他に天敵である棒金にさせないようにした戦法である。その意味では後手番一手損角換わりとも通ずるところがある。4→3戦法は乱戦を防ぎながら升田式石田流を目指すことのできる作戦。4→3戦法の4-3とは、3五を急がずいったん四間飛車に振ってから、三間飛車に振り直すことを意味している。出だしは角道オープン四間飛車と同様で、ひとまず△4二飛と振っておく。玉を動させたあと、△3二飛と飛車を振る。△7二玉まで指したことにより、▲2二角成から▲6五角の筋は消えている。△3二飛に▲2五歩なら△3五歩と突いていく。▲2四歩△同歩▲同飛なら△8八角成▲同銀△2二飛が角交換系の振り飛車ではお馴染みの反撃で充分である。▲2四歩を突かずに▲5八金右なら△3四飛と浮く。これは1手損しているが、升田式石田流の将棋となる。
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