キャリアの衰退と復活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 17:53 UTC 版)
「アルフレッド・ヒッチコック」の記事における「キャリアの衰退と復活」の解説
3本の企画が流れたあと、ヒッチコックはイギリスの外交官ドナルド・マクリーンとガイ・バージェス(英語版)がソ連に亡命した事件をもとにしたスパイ・スリラー『引き裂かれたカーテン』を作ることに決めた。1965年5月にヒッチコックはブライアン・ムーア(英語版)と脚本に取り組んだが、スクリプトにはいくつかの問題があり、執筆作業は7月に撮影を始めてからも続けられた。主演にはユニバーサルの要求でポール・ニューマンとジュリー・アンドリュースを起用したが、彼らに支払われた莫大なギャラのせいで予算は切り詰められ、創作面にお金を使いたかったヒッチコックは2人のギャラと配役に不満を表明し、作品へのやる気も失った。1966年夏に作品は公開されたが不評を集め、それまでのヒッチコック作品に見られた上質なサスペンスやウィットがなく、精彩を欠いた作品と見なされた。『タイム』誌には「なんと、ヒッチコックがどんなに優れたタッチを披露しても、もはや優れたヒッチコック映画はできないのだ」と評された。 1966年末、ヒッチコックはイギリスの殺人犯ネヴィル・ヒース(英語版)を題材にした『狂乱と万華鏡』を企画し、旧友のベン・W・レヴィにスクリプトの作成を手伝わせた。この作品は偏執狂で同性愛者の殺人犯が主人公にしていたが、ユニバーサルはその物議を醸す内容と描写のために映画化を拒否し、ヒッチコックは企画を棚に上げることになった。1967年いっぱい、ヒッチコックは1本も映画を作ることはなく、ほとんど自宅に引きこもるような生活を送った。翌1968年夏にはユニバーサルの提案で、レオン・ユリスの小説に基づく冷戦時代のスパイ・スリラー『トパーズ』を監督することにしたが、ユリスが書いた脚本は満足のいくものではなく、サミュエル・テイラーに書き直しを依頼した。撮影はプリプロダクションが完全に終わらないうちに始まり、各シーンの撮影の2、3日前にそのシナリオを書くという具合で進められた。1969年12月に作品は公開されたが、観客や批評家からは失望ともいえる評価を受け、ヒッチコック自身も「みじめ作品だった」と述べている。 作品が3本続けて失敗したヒッチコックは、1970年に自身をたてなおすための新しい主題を探し求め、やっとロンドンで女性を襲う偏執狂の連続殺人犯を描くアーサー・ラ・バーン(英語版)の小説『Goodbye Piccadilly, Farewell Leicester Square』が原作の『フレンジー』の監督を決定し、『狂乱と万華鏡』を思い起こすような物語を撮ることを表明した。脚本はアンソニー・シェーファーが執筆し、1971年にロンドンと近郊のパインウッド・スタジオで撮影されたが、ヒッチコックにとっては約20年ぶりのイギリスでの作品となった。1972年の第25回カンヌ国際映画祭での初公開は成功し、ヒッチコックはスタンディングオベーションを受けた。この作品は高い成功を収め、北米で650万ドルの利益を出した。批評家にも晩年のキャリアの傑作と見なされ、ロジャー・イーバートは「サスペンスの巨匠、昔の調子を取り戻す」と述べ、『タイム』誌は「ヒッチコックはまだまだ好調」と評した。 1973年、全米各地ではヒッチコック作品の回顧上映が行われ、ヒッチコック自身もさまざまな栄誉や称賛を受けるようになった。この年にヒッチコックはヴィクター・カニング(英語版)の小説『階段(英語版)』の映画化権を購入し、アーネスト・レーマンと脚本執筆を始めたが、その最中に心臓発作を起こし、ペースメーカーを付けることになった。脚本執筆は1年を要し、最終的にタイトルは『ファミリー・プロット』に決定した。会社は主演にジャック・ニコルソンとライザ・ミネリを提案したが、ヒッチコックはスターに高いギャラを払うことを拒否したため、代わりにバーバラ・ハリス(英語版)とブルース・ダーンを起用した。撮影は1975年に行われたが、その間にヒッチコックは疲労困憊し、関節炎の痛みにも苦しみ、ポストプロダクションは別の人物に任せた。1976年4月に公開されると、多くの批評家から好意的な評価を受け、『ニューヨーク・タイムズ』誌には「機知に富んだ、肩のこらない愉快な作品…ひさびさに楽しいヒッチコック作品」と評された。
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