衰退と新経路による開削
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 04:16 UTC 版)
「京杭大運河」の記事における「衰退と新経路による開削」の解説
しかし金が華北を占領して南宋と対立するようになると、大運河の流通も激減し、整備もされなくなってさびれてしまった。その後、元が中国大陸を征服すると、江南から首都の大都(北京)への近道として済州河と会通河が開かれた。つまり、いったん開封を経由して北京に至るそれまでのルートが不便だったため、杭州から北へ進み天津へとつながるルートが開かれたのである。元代には海運が発達し対外貿易を主にしていたので、従来に比べると大運河の重要度は落ちていたものの、この新しいルートは国内における北京の重要性を高めることになった。 明代に入り、さらに永楽帝によって南京から北京に遷都されると、再び大運河の重要度が増した。明は海禁策(貿易禁止、海上交通の禁止)を採っていたため再び内陸水運が見直され、また新たに運河が開鑿された。杭州から北へ進み、淮安→徐州→済寧→滄州→天津とつながる運河ができて、これが現在の大運河となった。海禁策を採用していた明・清においては、大運河を維持することが国都にとって死活的な重要性を意味しており、南河総督や漕運総督など大運河を管轄する重要な役職や役所が置かれた。 清末に開国して再び対外貿易が活発化すると、大運河の重要度は落ち、一地方の交通路に留まった。しかし中国大陸を統一した中華人民共和国成立後は再び整備が行われ、現在では2000トン級の船が通航できるように改修工事が行われている。ただし土砂の堆積が多く整備した運河の干上がりやすい黄河以北から天津までは必ずしもそうではなく、航空機や高速船のような新たな交通手段の発達もあって放棄されている箇所も少なくない。
※この「衰退と新経路による開削」の解説は、「京杭大運河」の解説の一部です。
「衰退と新経路による開削」を含む「京杭大運河」の記事については、「京杭大運河」の概要を参照ください。
- 衰退と新経路による開削のページへのリンク