衰退と活動停止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 01:40 UTC 版)
「社会政策学会 (日本 1897年)」の記事における「衰退と活動停止」の解説
大正期に入って友愛会が発足、ようやく組織的な労働運動が息を吹き返したが、学会はそのような状況の変化に適応することができなかった。さらに第一次世界大戦後、ヨーロッパよりマルクス主義社会科学が日本に伝えられ急速に勢力を拡大すると、会の標榜するドイツ歴史学派流の改良主義は、特に若手研究者・知識人から古くさいとみなされるようになり、会の影響力は次第に失われていった。ドイツ社会政策学派ではより急進的なブレンターノに学び帰国した福田徳三は、学会内では新世代に属し、中間派として厚生経済学による生存権概念の説明を試みていたが、マルクス主義に立つ河上肇・高野岩三郎・森戸辰男・大内兵衛らの左派勢力に十分対抗することはできず、学会内の左右分裂はますます激化し、第13回大会(1919年)における労働組合の位置づけをめぐる論争(労資協調の機関か、階級解放の手段か)のように、非和解的な対立へと発展していった。 1919年に起こった2つの出来事は、学会の分裂と混迷をますます露わにする結果となった。まず、労資協調をめざす官・財・学協同の機関「協調会」の設立に際し、この会への参加如何をめぐって学会内の対応は二つに分かれた。鈴木文治(大日本労働総同盟友愛会)が労働組合を前提としない労資協調に反対してこれへの入会を拒否すると、堀江帰一ら総同盟に近い会員は協調会参加を拒否し、彼ら以外にも高野岩太郎・森戸辰男・河上肇・河田嗣郎・福田徳三が不参加の態度を取った。これに対し、学会中の旧世代あるいは右派と目されていた桑田熊蔵・河津暹・金井延・添田寿一・神戸正雄・気賀勘重らは理事などの役員として参加したのである。 また同年、国際労働会議労働者代表選出問題で高野岩三郎が東大辞職をよぎなくされ、大原社会問題研究所の設立に際して初代所長に迎えられた。発足以来学会の事務を担当していた高野が、活動の軸を大原社研に移したことは、学会の活動をますます停滞させる結果をもたらした(その前年まで大会報告として毎年刊行されていた「学会論叢」が刊行されなくなったのは、このことに関わっていると思われる)。さらに翌1920年、雑誌論文をめぐる筆禍事件(森戸事件)により東大経済学部を失職した森戸辰男・大内兵衛が大原社研に中心メンバーとして参加した(学会関係者としては他に河田嗣郎も参加)。この結果、学会の現状に飽き足らなくなった左派の研究者たちは大原社研に結集していったのである。 以上のような分裂状況の結果として、1924年大阪での第18回大会を最後に学会の大会は開催されず、事実上の活動停止に陥った。しかし正式に解散や休止の宣言がなされたわけではなく、戦後に再建(後述)された現社会政策学会はこれを「休眠」と呼んでいる。なお社会政策学会の休眠により、全国的規模での経済学関連の学会は消滅してしまい、その復活は1930年の社会経済史学会、1934年の日本経済学会の発足まで待たなければならなかった。
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