衰退と没落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 06:20 UTC 版)
晴政の死後、名実共に赤松家の当主となった義祐は赤松家の勢力を取り戻そうと努力するが、この頃になると赤松家の勢力は播磨国内ですら及ばなくなっており、別所氏や宇野氏は独自の権力を確立して戦国大名として自立するなど、最早赤松家に従う有力重臣は小寺氏のみという有様であった。赤松家の勢力が及ぶ範囲は西播磨だけで、それさえも重臣の助力なくしては保てないほど衰退していた。 永禄11年(1568年)に織田信長が上洛すると、翌年には織田氏の勢力が東播磨に及び、別所安治は信長に従属した。西播磨で義祐を擁しながら大勢力を誇っていた赤松政秀は娘を将軍・足利義昭の侍女として送り信長と通じたが、義祐は信長に従わず織田軍の西播磨平定を妨害した。このため柴田勝家ら織田軍主力が播磨平定のために進出し、播磨国は結果的に信長の強い影響下に置かれる事になった。信長の支配下に置かれた播磨国では赤松家の大名権力は完全に有名無実と化し、実質的には赤松一族の別所氏や宇野氏がそれぞれ信長に従う事になる。なお、義祐は永禄13年(1570年)を最後に史料から政治活動が確認できず、天正4年(1576年)に没したとされており、既に赤松家当主には何の政治力すら無かったようである。 天正年間になると播磨国は信長の家臣・羽柴秀吉に与えられ、義祐の嫡子・則房は羽柴秀吉に従って播磨国内を転戦した。則房は播磨置塩に1万石を与えられて存続を許された。後に則房は阿波国板野郡に所領を移されている。
※この「衰退と没落」の解説は、「赤松氏」の解説の一部です。
「衰退と没落」を含む「赤松氏」の記事については、「赤松氏」の概要を参照ください。
- 衰退と没落のページへのリンク