衰退と復興
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明治時代に、さらに多くの地域に分かれて各地の名前を冠する萬歳が登場するようになったが、その多くは三河萬歳と尾張萬歳の系統であった。仏教色の濃い陰陽道の影響下にあった三河萬歳は、神道に変化して国家神道の政策の中で残っていき、大正時代の中頃まで萬歳の参内はあったようである。一方、尾張萬歳は娯楽性を高め、通年で興行として成立するものも現れた。こういった新しい尾張萬歳の中から漫才の基礎となる形のものも生み出された。また、正月に行われる従来の萬歳も、民間での門付は第二次世界大戦頃までは盛んであった。しかし多くの萬歳は第二次大戦後に衰退し、大和萬歳については継承が無く途絶えてしまった。 現在ある、各地の萬歳には継承者を捜し出して復興させたものが多いが、成立時期が古いとされる三河萬歳(愛知県安城市・西尾市など)と越前萬歳(福井県越前市)が1995年(平成7年)に、尾張萬歳(愛知県知多市)が1996年(平成8年)にそれぞれ国の重要無形民俗文化財に指定された。 お笑いコンビのすゑひろがりずは狂言を元にしたネタを持つが、メンバーの三島はM-1グランプリ2019の決勝に際してWikipediaの萬歳の項目を引用して「萬歳やって参ります」とツイートしている。
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衰退と復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 14:19 UTC 版)
安政2年(1855年)の安政の大地震では東西羅漢堂が倒壊するなどの大被害を受けた。明治以降寺は衰退し、明治20年(1887年)には本所緑町(東京都墨田区緑4丁目)に移転。さらに明治41年(1908年)末に現在地の目黒へ再移転した。この間、明治23年(1890年)にはチベット探検で知られる河口慧海(1866 - 1945)が当寺に住している。 その後、寺は無住となった時期もあり荒廃していたが、昭和13年(1938年)安藤妙照尼が入寺して、第二次大戦前後の困難な時代に寺を維持した。安藤妙照尼は新橋の芸者出身で、芸者時代の名を「お鯉」といい、総理大臣桂太郎の愛妾として知られたが、後に仏門に入った。本堂脇にある「お鯉観音」は彼女にちなむものである。貫主日高宗敏の尽力によって五百羅漢寺の境内が整備され、近代的なビルに生まれ変わったのは昭和56年(1981年)のことである。 現住職はスタジオジブリ製作の長編アニメーション映画『コクリコ坂から』原作者にして住職の佐山哲郎の息子・佐山拓郎である。
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衰退と復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 00:56 UTC 版)
江戸時代後期、最盛期の寛永寺は寺域30万5千余坪、寺領11,790石を有し、子院は36か院に及んだ(現存するのは19か院)。現在の上野公園のほぼ全域が寺の旧境内であり、最盛期には、更にその2倍の面積の寺地を有していた。例えば、現在の東京国立博物館の敷地は寛永寺本坊跡であり、博物館南側の大噴水広場は、根本中堂のあったところである。 江戸時代には飛鳥山と並ぶ桜の名所として知られており、庶民の行楽地であった。 しかし、上野の山は、幕末の慶応4年(1868年)、彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となり、根本中堂をはじめ主要な堂宇を焼失し、残された建物は五重塔、清水堂、大仏殿などだけとなった。明治維新後、寺領は没収され、輪王寺宮は還俗、明治6年(1873年)には旧境内地が公園用地に指定されるなどして、廃寺状態に追い込まれるが、明治8年(1875年)に再発足。江戸時代の境内地だった場所は、上野公園や上野駅の用地となり大きく変貌をとげた。明治12年(1879年)子院の1つの大慈院があった場所に川越の喜多院(天海が住していた寺)の本地堂を移築して本堂(中堂)とし、復興の途についた。 太平洋戦争中の東京大空襲では、当時残っていた徳川家霊廟の建物の大部分が焼失した。2度の戦災をまぬがれたいくつかの古建築は、上野公園内の各所に点在している。
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衰退と復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/09 02:08 UTC 版)
18世紀半ば頃より、チェンバロは徐々にその地位をピアノに奪われるようになる。ピアノは急速に発展を遂げ、伝統的なチェンバロ製作の技術は次第に失われた。古いチェンバロはうち捨てられ、少なからぬ楽器が破壊され(例えばパリの音楽院では暖炉の薪に使われたこともあった)、19世紀にはいわば過去の遺物と化していた。 19世紀末に、再びチェンバロへの関心が生じ、徐々に復興が始まった。チェンバロ再興においては、過去の技術を再発見することで、古い楽器を真に復元しようという立場と、時代考証の観点にはそぐわないが、楽器の質を高めるものとして現代的な技術を利用しようという立場の対立があった。 初期の伝統主義者にはアーノルド・ドルメッチがおり、20世紀初頭にイングランドのサリーで活動したが、ドルメッチの試みは当時としては異質で、20世紀前半は現代的技術による復興が主流であった。この時期、例えばパリのプレイエル社によって作られた楽器は、当時のグランドピアノの技術を多く用いており、チェンバロの弦の張力を支えるにはまったく不必要に重い金属のフレームを用いていた。また音を強くするために、18世紀のジャーマン・チェンバロをモデルとして、本来チェンバロでは珍しかった16フィート・ストップを備えることが一般的に行われた。 プレイエル・チェンバロの代表的な奏者にはワンダ・ランドフスカがおり、その演奏と彼女自身の人気により楽器としてのチェンバロの人気も高まった。また20世紀の作曲家によって新しくチェンバロのための作曲が盛んとなり、多くの曲がランドフスカのために書かれた。 20世紀半ば頃より、ボストンのフランク・ハバードとウィリアム・ダウド、およびドイツ・ブレーメンのマルティン・スコブロネックといった製作家たちにより、新たな伝統主義的再興の気運が高まった。これらの製作家たちは、古い楽器を数多く分解調査し、入手できる歴史的文献にあたるといった丹念な調査に基づいて製作を行っている。彼らの作る時代考証的な楽器は高い人気を博し、すぐに他の多くの製作家たちも時代考証的な楽器の製作に転じた。最終的には伝統的製作が主流となり、20世紀初頭のような重いチェンバロは現在ではほとんど作られていない。 1950年代後半以降、愛好家によるキットからの自己製作も多く行われている。キットはアメリカの製作家ウォルフガング・ズッカーマンが始めた方法で、チェンバロの人気を高めるのに大きな力となった。初期のズッカーマン・キットは時代考証的というよりは実用的に設計されており、合板を使い、ベントサイドもまっすぐであった。後年のキットは、より歴史考証的な設計となっている。
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