衰退と経営破綻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 04:30 UTC 版)
「リーハイ・バレー鉄道」の記事における「衰退と経営破綻」の解説
世界恐慌後、リーハイ・バレー鉄道には繁栄の時期もいくらかあったが、明らかにゆっくりとした衰退を始めていた。旅客は列車より自動車の利便性を好んでいたし、航空機もまた列車より速い長距離輸送手段となっていた。燃料としては石油やガスが石炭を置き換えていた。世界恐慌ではすべての鉄道が経営難に直面し、議会は倒産法の改定が必要であると認識した。1938年から1939年にかけてのチャンドラー法では、鉄道にとって新しい救済の形態を規定していた。鉄道会社は運行を続けながら財務再編を行うことができた。リーハイ・バレー鉄道は巨額の借入金が期限に達した1940年にそうした財務再編の認可を受けた。この再編により借入金の満期を繰り延べることができたが、1950年にこの再編をもう一度繰り返す必要があった。この再編の期間中、1953年まで配当金の支払いは不可能となっており、1953年に1931年以来の配当の支払いを行った。1957年にリーハイ・バレー鉄道は再び配当の支払いを停止した。 1950年代にはとどめを刺す出来事が2件発生した。1956年に連邦補助高速道路法が制定されたことと、1959年にセントローレンス海路が開通したことである。州間高速道路網はトラック産業は戸口から戸口への貨物輸送サービスを提供する支援となり、またセントローレンス海路では穀物の出荷を鉄道を経由せずに直接海外市場へ送り出すことが可能となった。東部の鉄道会社は1960年代には存続をかけてもがいていた。ペンシルバニア鉄道は1962年に州際通商委員会に対して、リーハイ・バレー鉄道の株式をペンシルバニア鉄道の株式と交換して完全に支配下に収めること、1941年以来の議決権信託を廃止することの承認を求めた。ペンシルバニア鉄道はリーハイ・バレー鉄道の発行済み株式の85パーセント以上を手に入れ、これ以降リーハイ・バレー鉄道はペンシルバニア鉄道の一部門であるも同然となった。ペンシルバニア鉄道は1968年にニューヨーク・セントラル鉄道と合併してペン・セントラル鉄道となったが、ペン・セントラル鉄道は1970年に経営破綻し、東部の鉄道会社に連鎖倒産をもたらした。 1970年6月21日、ペン・セントラル鉄道は破産を宣言して破産保護を求めた。結果として、ペン・セントラル鉄道はリーハイ・バレー鉄道を含めて多くの北東部鉄道に対して、貨車の使用やその他の運営にかかわる費用の支払い義務を繰り延べされた。これに対して他の会社がペン・セントラル鉄道に対して支払う必要がある費用は繰り延べされなかった。この収支の不均衡は既に経営難であったリーハイ・バレー鉄道にとって致命的であり、ペン・セントラル鉄道よりほぼ1か月遅れて1970年7月24日に破産を宣言した。この日付はしばしば、ロバート・アーチャーの書いたリーハイ・バレー鉄道に関する決定的な著作「ザ・ルート・オブ・ザ・ブラック・ダイヤモンド」の誤りにより6月24日と取り違えられている。 リーハイ・バレー鉄道はこの当時一般的であったように倒産後も1970年を通じて運行を続けた。1972年には、同様に倒産した競合の石炭輸送鉄道であるセントラル・レールロード・オブ・ニュージャージーのペンシルベニア州における残りの路線を引き継いだ。この2社は、ウィルクスバリからニューヨークまでほとんどの区間で並行して路線を持っていたため、費用節減のために1965年にこの地域で路線共有の協定を結んでいた。
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