衰退と解消の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 00:15 UTC 版)
「自由民主党の派閥」の記事における「衰退と解消の動き」の解説
結党以来、派閥の弊害が指摘されており、1963年10月の「三木答申」により穏やかな派閥解消が成立するか注目されたものの、当時の池田勇人総裁は自由民主党史上初めてとなる試みを受け流した格好となり、結局派閥解消には至らなかった。その後、1977年3月の福田赳夫総裁下と、1994年の河野洋平総裁下での野党時代に派閥解消は行われ、マスコミでも「旧○○派」の通称に統一された。しかし、実質的には派閥は連綿と存続しており、派閥活動が公然と行われて総裁選挙に影響を与えた。 第45回衆議院選挙では自由民主党が大幅に議席を減らしたため、各派閥で退会者が相次いだ。2009年には高村派を退会して「のぞみ」を立ち上げた山本有二は派閥が昼食を食べるサロンになったと批判した。2010年には新党結成や公認争いを巡り離党者に歯止めがかからず、派閥の退会にもつながった。鳩山邦夫、藤井孝男、小池正勝の離党によりどの派閥にも属さない無派閥議員の人数が33人となり、額賀派を抜いて自由民主党内の第二勢力となった。2011年には無派閥議員が48人となり、自由民主党内の第一勢力となった。
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