衰退と閉業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 13:25 UTC 版)
1960年(昭和35年)頃から、浅草六区の映画館街は、テレビの影響を受けて客足が大きく落ち込んだ。その煽りとレジャーの変化による影響から、新世界も1961年(昭和36年)をピークとして下り坂となった。開館当時は70店舗あった館内の出店業者も、1971年(昭和46年)7月の時点で3分の1の24店舗に減少している。 また建物自体も古くなっており、修繕を繰り返して貸し続けることは効率的でないと判断した大家の物産不動産は、日本中央競馬会を、一手に引き受ける借り手として検討。日本中央競馬会は1963年(昭和38年)、既に浅草寺裏へ場外馬券売場を開設していたが、競馬ブームのために利用者は増加の一途を辿り、1967年(昭和42年)に新世界の3階を、1969年(昭和44年)には4階を借りて分室を設置し、払い戻し業務もここに移していた。しかしここも手狭になりつつあり、当時は建物を物色しているところだった。 こうして営業不振と日本中央競馬会の進出が重なり、新世界側は1971年(昭和46年)4月28日、正式な説明はしないまま、ビル内に入居する24店舗に「十一月以降の契約更新はお断わり」と申し渡した。正式な閉業時期は不明だが、1972年(昭和47年)6月の時点で、新世界ビルディングは取り壊し作業が進められている。跡地には予定通り場外馬券売場(ウインズ浅草)が建設された。
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