衰退と閉鎖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/24 05:47 UTC 版)
しかし、ローズ座の劇場としての成功により、バンクサイドには他にも多くの劇場が建設されるようになった。1596年の冬には、ローズ座の近辺にスワン座が開設された。当時の人々は、ローズ座が看板としていた史劇と対照的な、スワン座で公演される喜劇や悲劇に惹きつけられるようになっていった。1598年にはアレンが引退し、ヘンズローは劇場主および銀行家の立場から完全な財務責任者へと転身した。さらに1599年、宮内大臣一座がショーディッチのカーテン座を離れ、バンクサイドにグローブ座を建設したことで、ローズ座は一層厳しい立場に置かれた。ヘンズローとアレンは翌年の1月にテムズ川の北にフォーチュン座を建設した。しかし市職員からの苦情に促された枢密院は1600年6月、バンクサイドのグローブ座と、ミドルセックスの(正確にはショーディッチの)フォーチュン座を除く劇場での舞台公演を許可しない法令を成立させた。このときヘンズローとアレンは既にフォーチュン座を開設しており、宮内大臣一座が去ったショーディッチの空席に納まっていたと見られる。ローズ座はその後、1600年にペンブルック伯一座により、1602年と1603年にはウスター伯一座により短期間利用された。1605年には、ローズ座が建てられている地所の賃貸契約が終了した。ヘンズローは最初と同じ条件で期間を更新できるものと期待していたが、教区は契約の再交渉を主張し、賃貸料を3倍に引き上げたため、ヘンズローは1605年に劇場を放棄した。その後ローズ座は、早くて1606年には取り壊されていたと考えられる。ヘンズローは1613年にホープ座の建設に取り掛かったが、その3年後に死亡した。
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