衰退と飢饉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/20 18:52 UTC 版)
「マドゥライ・ナーヤカ朝」の記事における「衰退と飢饉」の解説
チョッカナータ・ナーヤカの治世、1673年にタンジャーヴール・ナーヤカ朝を滅ぼし、その首都タンジャーヴールには、弟のアラギリ・ナーヤカを配置した。 しかし、1675年、ビジャープル王国によって派遣されたヴィヤンコージーが、タンジャーヴールを奪い、タンジャーヴール・マラーター王国を建国した。 これ以降、タンジャーヴール・マラーター王国が新たな隣国となり、マイソール王国なども台頭するようになり、これらと争うことになった。 だが、この頃、マドゥライ・ナーヤカ朝の領土は飢饉に陥り、農村や都市のみならず、マドゥライまで荒廃し、王であるチョッカナータ・ナーヤカは堕落してしまった。 この地を訪れていたイエズス会士は、1678年の状況について、 “ 「以前はとても繁栄していた都市は、面影はなくなり、かつて豪華で壮大だった宮殿は、荒廃して廃墟となっている。マドゥラ(マドゥライ)はたとえると盗賊のたまり場よりも少ない町である。新しいナーヤッカンは本質的に何もしない王である。彼はすべての夜を寝て、すべての日を寝ており、寝ていない彼の隣人は、各々の時間に、彼から彼の領土のいくつかの断片をひったくる。」 ” 、と語っている。 チョッカナータ・ナーヤカは晩年を、タンジャーヴール・マラーター王国とマイソール王国の侵入に苦しみながら、1682年に死亡した。
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