村山口の衰退と復活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 14:24 UTC 版)
「大宮・村山口登山道」の記事における「村山口の衰退と復活」の解説
明治時代には廃仏毀釈により登山者が大きく減少した。その廃仏毀釈は「山掃除」と称されるほど徹底的に行われ、仏像は破壊され、噴火口や谷底へ投げ捨てられたりしたという。1906年(明治39年)に富士山本宮浅間大社から山宮浅間神社を経由する新大宮口が開かれ、この時点でほとんど村山口は使用されなくなった。1930年(昭和5年)発行の1/25000の国土地理院地図には富士山スカイライン西側の新大宮口登山道と東側の村山口登山道の両方が記載されている。 1913年(大正2年)に懸巣畑(カケスバタ)口へのバスが開通するとそちらが新大宮口登山道の入口となって山宮浅間神社を経由する元の新大宮口入口は衰退。昭和に入って一合目まで、1953年(昭和28年)には二合目、1960年(昭和35年)には三合目、1963年(昭和38年)には新五合目(旧三合五勺)下までバスが順次開通し、1969年(昭和44年)には富士山スカイラインが開通し現在の富士宮口五合目(旧三合五勺)までバスが通るようになると新大宮口登山道と旧バス道は廃道となった。麓からの徒歩で登山できるのは吉田口登山道と精進口登山道ぐらいになってしまった。 富士山を世界遺産へ登録する機運が高まると麓からの徒歩登山道の復活の動きが高まり、須山口登山道の復活に続いて村山口登山道も2005年(平成17年)に一部ルートは変わったものの完全復旧した。富士宮ルートには六合目で合流する。しかし、明治から昭和半ばまで使用された新大宮口登山道は廃道となったままである。
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