富士宮ルート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:16 UTC 版)
静岡県富士宮市の富士宮口五合目(新大宮口旧三合五勺、富士山スカイライン・1969年(昭和44年)開通)を出発し、富士山南側から山頂を目指すルート。登山口の標高は2,380m。頂上への1コースの内、五合目の標高が一番高い。頂上には富士山本宮浅間大社奥宮がある。静岡県側では最も利用者が多い。 お鉢巡り上にある各ルートの「頂上」・「山頂」のうち富士宮口山頂が最高峰の剣ヶ峰に一番近い。五合目の富士山総合指導センター前に登り口がある。このあたりからは剣ヶ峰方向が望める。火山礫の幅広の道を登ると樹木がなくなり、なだらかな道をたどり2軒の山小屋が並んでいる六合目に着く。ここまでは観光客が多い。 麓からの徒歩道としての登山道は富士山スカイラインの開通後、長らく未整備であったが、古来の「村山口登山道」が一部の崩落個所を除きかつてとほぼ同じルートで2005年(平成17年)に復旧した。富士宮ルートとは六合目で合流する。 利点 登山口の標高が高いので、他のルートよりも早く山頂に着く。山小屋が多く、八合目には診療所(富士山衛生センター)もあり、トラブルに見舞われても安心。宝永山に立ち寄れる。浅間大社奥宮から剣ヶ峰まで20分で行ける。名古屋や関西からのアクセスが良い(最近は関東からも行きやすくなった)。 難点 登りと下りが同じ道で、登山者も多く、混雑しやすい。駐車場や山小屋も混んでいる。平均勾配が約29%と傾斜が厳しく、岩場が多い。樹林帯がなく、陽射しが強い。人工物が多く、自然を満喫できない。マイカーは規制されやすい。バスの本数が吉田ルートに比べて少ない。残雪が多く、7月中旬まで登山道が開通しない年がある。発病や転倒事故が多い。 主なアクセス JR御殿場線御殿場駅下車、登山バスで水ヶ塚公園下車(御殿場口新五合目経由で55分)、シャトルバスで富士宮口五合目(登り40分。30分間隔で運行) JR身延線富士宮駅下車、高速バス(1時間10分, 富士急行) 富士宮駅下車、登山バス(1時間20分 - 1時間40分, 富士急静岡バス。新富士、富士発のバスも経由するため本数が多い。) JR東海道本線富士駅下車、登山バス(2時間 - 2時間10分, 富士急静岡バス) JR東海道新幹線 新富士駅下車、登山バス(1時間55分 - 2時間15分, 富士急静岡バス) 三島駅下車、登山バス(2時間5分, 富士急静岡バス) 静岡駅下車、高速バス(2時間10分, 富士急行) 歴史 「大宮・村山口登山道」は畿内に近いため、富士登山道としては最も古いルートといわれるが、中世の記録は北口のほうが多い。表口や南口、三島口(頂上の三島岳に由来、あるいは三嶋大社・浅間神社から見た呼称)とも呼ばれ、大宮(標高150m)と村山(標高500m)の2つの集落により管理されていた。 大宮では、噴火を鎮めるため大同元年(806年)に浅間神社(現在の富士山本宮浅間大社)が山宮浅間神社から遷座している。頂上までの登山がいつごろから行われるようになったかは不明だが、富士山本宮浅間大社に伝わる正治2年(1200年)の『末代証拠三ケ所立会証文』には「南口大宮」の記載があり、久安5年(1149年)には末代により頂上に大日寺(現在の浅間大社奥宮)が建てられた記録がある。村山では12世紀後半の遺構が複数、頂上では承久2年(1220年)ごろの経巻が見つかっており、考古学的にも裏付けられていることから、平安時代から遅くとも鎌倉時代には開かれていたのは確実である。文保元年(1317年)ごろには末代の流れをくむ頼尊によって村山に富士山興法寺(現在の富士根本宮村山浅間神社)が建てられたともいわれ、村山修験の中心地として発展した。登山道は村山三坊によって管理され、大宮側は基本的に関わらなかった。御師はおらず、大宮では浅間大社の社人が、村山では修験者が宿坊を管理していた。 宝永4年(1707年)の宝永大噴火の被害で30年以上不通になると、村山修験者が京都まで行って富士垢離をするようになり、それで富士登山と同じ御利益があるとしたことや、もともと御師がおらず西国各地への「檀廻り」が行われなかったことから、登山客は減少した。それでも浅間大社を信仰する幕府の裁定で、頂上の利権争いにおいて大宮が内院散銭の一番拾いの六割を取得し、八合目より上を浅間大社の支配地と明確にされるなど、影響は強かった。ただし、大宮が直接管理できていたのは薬師堂(現在の久須志神社)のみで、村山口から大日堂(現在の浅間大社奥宮)は村山の管理下であったことから、大宮関係者ですら村山に山役銭(登山料)を払わねばならないため、須走口を使っていた。また、大宮から村山を経て登山しなければならないことから、江戸時代には何度か村山から直接の登山に誘導するよう試みられており、大宮が抗議して幕府に仲裁されるなど、大宮と村山の連携はとれておらず、関係は悪かった。 明治時代になると幕府からの縛りがなくなったことから、大宮は身延線の開通を見越して1906年(明治39年)に「新大宮口登山道」を開削し、村山ではなく山宮浅間神社を経由するようになる。1913年(大正2年)にはバスが懸巣畑(カケスバタ)まで開通し、山宮浅間神社を経由することはなくなった。その後もバス路線は伸び、現在の富士宮ルートになると徒歩で登山する人はいなくなり、五合目までは実質的に廃道となった。一方、村山口は明治初期の神仏分離での興法寺・村山三坊の解体および、この新大宮口開通により衰退していった。昭和になると登る人もほとんどいなくなり、富士山スカイラインの開通で実質的に廃道となり、近年再整備されるまでは放置されていた。そのため、「大宮・村山口登山道」として世界文化遺産に登録されているのは六合目(標高2,490m)から頂上までである。富士宮口五合目から六合目は新大宮口のものであるため含まれない。 富士宮口五合目へ合流する登山道としては上記の「村山口登山道」のほかに、上記の「新大宮口登山道」および旧バスルートの「懸巣畑口登山道」、それより西側には曽我八幡宮・白糸の滝付近から新大宮口あるいは大沢崩れ右岸ルートに接続する「上井出口登山道」(上井出青年団により昭和初期開通)や、人穴浅間神社から大宮・村山口あるいは精進口に接続する「人穴口登山道」(江戸時代開通)が存在したが、現在は再整備された「村山口登山道」を除き整備されておらず廃道扱いである。
※この「富士宮ルート」の解説は、「富士登山」の解説の一部です。
「富士宮ルート」を含む「富士登山」の記事については、「富士登山」の概要を参照ください。
- 富士宮ルートのページへのリンク