大宮から村山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 14:24 UTC 版)
大宮には道者坊が存在しており、道者の宿坊として用いられていたと考えられている。この「大宮道者坊」は浅間大社の社人衆により運営されており、『大宮道者坊記聞』には「大宮道者坊ノ事、古ヘ享禄・天文年間ハ、凡三十ヶ余坊有之由伝フ」とある。中世には既に整備されており、徐々に統合されていったと考えられている。また今川氏輝判物に見える「西坊屋敷」や今川義元判物に見える「大宮西坊屋敷」が大宮道者坊の1つではないかとする指摘もある。 近世初頭における大宮・村山口登山道の様相を示す史料として、慶長13年(1608年)の『寺辺明鏡集』(興福寺大乗院旧蔵)がある。 同六月九日駿河ヲ立テ、フヂ山上スルナリ。(中略)大宮ト言処ニトマルナリ 先ソコニテコリヲトル コリノ代六文出シテ大宮殿ヘ参也 — 『寺辺明鏡集』 湧玉池で垢離を取り浅間大社に参拝し、その後村山の富士山興法寺へ至り大宮口と同様垢離をとり(龍頭滝)、登山へ挑む様子が記されている。この際は村山三坊のうち大鏡坊に宿泊している。御室大日・中宮等を経た後、富士山でお鉢巡りを行う様子も記されている。また富士山の区分を「茅原」「深山」「ハゲ山」と三段階に分けている。これら「富士参詣曼荼羅図」諸本の様相と他史料の記述は一致しており、当時の南口における一般的な登山風習であったことが指摘される。 現在も「富士山道」の道標が、大宮口と村山口の間に残る。道標には「右富士山道」とあり、右が登拝道であり、左は山宮御神幸道となる。
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