登拝道の指定と実際
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 14:24 UTC 版)
「大宮・村山口登山道」の記事における「登拝道の指定と実際」の解説
天正・慶長期の駿河国富士郡の有力者は、交通の要衝である大宮に道者を集中させる政策を取っていた。天正年間には井出氏が西国の道者は大宮を通過するようにという禁制を出し、慶長年間には井出正次が同様の内容の禁制を岩本(静岡県富士市)に掲げている。共に井出氏が関わるものであるが、この井出正次は慶長6年(1601年)に志摩守に叙任される有力者で、このとき代官頭に次ぐ地位にいたとされる富士郡の支配を担当した人物であった。 また近世になると幕府によって取り決めがなされ、寛文2年(1662年)には大宮代官である井出籐右衛門と加島代官が、道者が大宮を経ず村山に行くことを禁ずる制札をそれぞれ出している。また寛政10年(1798年)には公文富士氏の富士長門が同様の内容の制札を出すよう韮山代官所に願い出ており、韮山代官はその意向に沿って寛政11年(1799年)に制札を出している。このように繰り返し同様の内容の制札が出された背景として、西国の道者が潤井川を渡った後に大宮を経ず直接村山に向かう例が見られたためである。また複数回出されていることから、制札でも歯止めはかかっていなかったとされている。 幕府により大宮を通ることが義務付けられているという認識は西国においても同様であり、元禄2年(1689年)の文書によると、三禅定を行っていた松栄寺(愛知県常滑市)は 山城・大和・三州・遠州等数ケ国者大宮村山通り登山仕筈 公義御定二御座候故 — 「盛田家文書」 と述べ、尾張国からの道者は大宮・村山口を通ることが幕府によって取り決められていると述べている。 またこの松栄寺にも富士参詣曼荼羅図が伝来しており、松栄寺伝来の富士参詣曼荼羅図では富士川を渡った後に富士本道へ入り、その後大宮・村山口登山道を用いるルートが示されている。 しかし近世を通して大宮を経ずに村山へ向かう道者は存在しており、吉原宿から村山へ北上する村山道が存在していた。また復路に関しても大宮を経ていない例が散見され、例えば現存する「富士山禅定図」には往路で通った富士山本宮浅間大社を経ずに村山から直接水神森方面へ至る下向道が示されている。つまり幕府の取り決めとしては大宮から村山を経て富士山頂に至り、その後下山するのが表口のルートであった。しかし実際は往路または復路で大宮を経ずに登拝を行う例が存在し、逆に富士山体により近い村山は往路・復路共に経由されていたと言える。
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