登攀史とは? わかりやすく解説

登攀史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 10:26 UTC 版)

ヒマルチュリ」の記事における「登攀史」の解説

頂上目指す準備調査1950年1954年行なわれ最初に頂上目指し1955年試み早々に失敗終わった1955年登頂試みたのはケニアであった日本山岳会は、1958年登坂ルート探索する先遣隊として金坂一郎石坂二郎送った。翌1959年日本隊は、村木次郎隊長に、松田雄一石坂二郎田辺寿竹田寛次、山野井武夫住吉仙也、木村勝久で編成され松田石坂頂上目指し標高7,400mまで達したが、悪天候阻まれ登頂断念して撤退した日本山岳会は、翌々年次の遠征隊を組織する方針をとった。 最初に登頂成功したのは、1960年慶應義塾大学山岳部OB中心とした慶大ヒマラヤ登山であった慶大隊は当初アンナプルナ第二峰、次いでダウラギリ第二峰を目標としていたが、1959年末にヒマルチュリ登頂目指すことに目標転じ山田二郎隊長宮下秀樹田辺寿中沢公正、村田茂、大森弘一郎原田雅弘、河田善明、高塩就、木村勝久で登山隊を編成した頂上目指し南西側の「シックル尾根 (Sickle Ridge)」をたどるルートをとり、まず西峰主峰東峰)の間の鞍部上がり、そこに最終の第6キャンプ設けた。そして、5月24日田辺原田次いで25日宮下中沢と、都合4人が登頂成功した。この登頂では、8000m未満の峰の登頂としては異例なことに、酸素ボンベ使用された。なお、この登山の際に、シェルパ1名が事故死した。 ヒマラヤン・インデックス (Himalayan Index) には、この初登頂のほか、5件の登頂記載されており、さらに失敗終わった登攀試み10記録されている。一連の登攀は、この山の南側南西側南東側から様々なルート試みられた。 西峰は、主峰登頂にも挑んだ1978年の「と岩の会」による日本隊の2隊員隊長尾形好雄と、菅野一寛)が初登頂果たした。彼らは5月6日にまず主峰登頂し次いで7日西峰初登頂成功した。彼らは南側のドーディ・コーラ (the Dordi Khola) から登攀し、西峰には東側からアプローチした。なお、登山隊は西峰への登山申請行っていなかった(当時西峰立入禁止とされていた)ことから、ネパール政府は「登山規則破った」として3年間の入国禁止5年間のネパールにおける登山禁止処分下している。 北峰初登頂は、1985年北壁から登攀した韓国隊によって果たされた。 1986年には、登頂果たした日本大学登山隊4人のうちひとりが、下山途中滑落して行方不明となった

※この「登攀史」の解説は、「ヒマルチュリ」の解説の一部です。
「登攀史」を含む「ヒマルチュリ」の記事については、「ヒマルチュリ」の概要を参照ください。


登攀史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 05:45 UTC 版)

ナムチャバルワ」の記事における「登攀史」の解説

ナムチャバルワは、1912年イギリス測量隊によって位置確認されたが、この地域1980年代中国登山家たちが登頂試みるようになるまで、ほとんど誰も足を踏み入れなかった。このためナムチャバルワはギャラペリとともにヒマラヤ残され最後秘峰」と称された。登山家たちは様々なルート探索したが、頂上へはたどり着けなかった。雪崩の危険が大きく1984年中国隊は1日500回の雪崩発生したほどであった1990年中国日本合同隊が頂上へのルート偵察した1991年には、別編成日中合同隊が7,460mまで到達したが、雪崩のために隊員ひとりであった大西宏遭難死し、隊は登頂断念して撤退した翌年第3次日中合同隊が、南稜に6カ所のキャンプ積み重ね途中でナイブン (Nai Peng) 峰(7,043m)を超え10月30日頂上にたどり着いた。この登頂では、11名が頂上立った英国山岳会のヒマラヤン・インデックス (Himalayan Index) には、この初登頂以降登頂記録はない。

※この「登攀史」の解説は、「ナムチャバルワ」の解説の一部です。
「登攀史」を含む「ナムチャバルワ」の記事については、「ナムチャバルワ」の概要を参照ください。


登攀史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/07 07:54 UTC 版)

リモI」の記事における「登攀史」の解説

リモ山群登攀しようという最初試みは、1978年の日本遠征隊によるものであったが、これはほとんど成功しなかった。1984年にはインド陸軍遠征隊がリモIV登頂成功し1985年には有名なヒマラヤ経験者ハリシュ・カパディア(英語版)が率いる、十分に組織されインド/イギリス遠征隊が入山した。このインド/イギリス遠征隊は、デイヴ・ウィルキンソン (Dave Wilkinson) とジム・フォザリンガム (Jim Fotheringham) がリモIII初登頂成功したが、リモI登頂果たせなかった。 リモI初登頂であり、現在のところ唯一の登頂は、フカム・シン (Hukam Singh) と尾形好雄率いた1988年インド/日本隊によるものである。この隊は、南側のアイベックス・コル(Ibex Col、「ヤギ鞍部」の意)と呼ばれる重要な鞍部起点として、南壁登攀して南西稜に上がった。この経路は、1500mに及ぶ技術要する登攀を含むものであった

※この「登攀史」の解説は、「リモI」の解説の一部です。
「登攀史」を含む「リモI」の記事については、「リモI」の概要を参照ください。


登攀史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/04 18:52 UTC 版)

クーラカンリ」の記事における「登攀史」の解説

クーラカンリ1922年最初測量が行なわれて地図記載され1958年には中尾佐助周辺調査してチベット領内位置していると報告した1986年神戸大学登山隊を中心とした日中共同隊が、主峰 (7,538m) の初登頂成功した2001年には、東海大学チベット大学クーラカンリ友好学術登山隊が、中央峰 (7,418m) と東峰 (7,381m) の初登頂成功した。この登山隊は、この年日本スポーツ大賞で「優秀団体」に選ばれた。 2008年には、登攀中の日本隊を標高6000m付近発生した雪崩襲い、3人の死者出した同隊は撤退した

※この「登攀史」の解説は、「クーラカンリ」の解説の一部です。
「登攀史」を含む「クーラカンリ」の記事については、「クーラカンリ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「登攀史」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「登攀史」の関連用語

登攀史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



登攀史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのヒマルチュリ (改訂履歴)、ナムチャバルワ (改訂履歴)、リモI (改訂履歴)、クーラカンリ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS