登攀史
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頂上を目指す準備調査は1950年と1954年に行なわれ、最初に頂上を目指した1955年の試みは早々に失敗に終わった。1955年に登頂を試みたのはケニア隊であった。日本山岳会は、1958年に登坂ルートを探索する先遣隊として金坂一郎と石坂昭二郎を送った。翌1959年の日本隊は、村木潤次郎を隊長に、松田雄一、石坂昭二郎、田辺寿、竹田寛次、山野井武夫、住吉仙也、木村勝久で編成され、松田・石坂が頂上を目指し標高7,400mまで達したが、悪天候に阻まれ、登頂を断念して撤退した。日本山岳会は、翌々年に次の遠征隊を組織する方針をとった。 最初に登頂に成功したのは、1960年の慶應義塾大学山岳部OBを中心とした慶大ヒマラヤ登山隊であった。慶大隊は当初アンナプルナ第二峰、次いでダウラギリ第二峰を目標としていたが、1959年末にヒマルチュリ登頂を目指すことに目標を転じ、山田二郎を隊長に宮下秀樹、田辺寿、中沢公正、村田茂、大森弘一郎、原田雅弘、河田善明、高塩就、木村勝久で登山隊を編成した。頂上を目指し、南西側の「シックル尾根 (Sickle Ridge)」をたどるルートをとり、まず西峰と主峰(東峰)の間の鞍部に上がり、そこに最終の第6キャンプを設けた。そして、5月24日に田辺と原田、次いで翌25日に宮下と中沢と、都合4人が登頂に成功した。この登頂では、8000m未満の峰の登頂としては異例なことに、酸素ボンベが使用された。なお、この登山の際に、シェルパ1名が事故死した。 ヒマラヤン・インデックス (Himalayan Index) には、この初登頂のほか、5件の登頂が記載されており、さらに失敗に終わった登攀の試みが10件記録されている。一連の登攀は、この山の南側、南西側、南東側から様々なルートで試みられた。 西峰は、主峰の登頂にも挑んだ1978年の「雪と岩の会」による日本隊の2隊員(隊長の尾形好雄と、菅野一寛)が初登頂を果たした。彼らは5月6日にまず主峰に登頂し、次いで翌7日に西峰の初登頂に成功した。彼らは南側のドーディ・コーラ (the Dordi Khola) から登攀し、西峰には東側からアプローチした。なお、登山隊は西峰への登山申請を行っていなかった(当時、西峰は立入禁止とされていた)ことから、ネパール政府は「登山規則を破った」として3年間の入国禁止、5年間のネパールにおける登山禁止処分を下している。 北峰の初登頂は、1985年に北壁から登攀した韓国隊によって果たされた。 1986年には、登頂を果たした日本大学登山隊4人のうちひとりが、下山途中に滑落して行方不明となった。
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登攀史
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ナムチャバルワは、1912年にイギリスの測量隊によって位置を確認されたが、この地域は1980年代に中国の登山家たちが登頂を試みるようになるまで、ほとんど誰も足を踏み入れなかった。このため、ナムチャバルワはギャラペリとともに「ヒマラヤに残された最後の秘峰」と称された。登山家たちは様々なルートを探索したが、頂上へはたどり着けなかった。雪崩の危険が大きく、1984年の中国隊は1日に500回の雪崩が発生したほどであった。 1990年、中国と日本の合同隊が頂上へのルートを偵察した。1991年には、別編成の日中合同隊が7,460mまで到達したが、雪崩のために隊員のひとりであった大西宏が遭難死し、隊は登頂を断念して撤退した。翌年、第3次の日中合同隊が、南稜に6カ所のキャンプを積み重ね、途中でナイブン (Nai Peng) 峰(7,043m)を超え、10月30日に頂上にたどり着いた。この登頂では、11名が頂上に立った。英国山岳会のヒマラヤン・インデックス (Himalayan Index) には、この初登頂以降の登頂の記録はない。
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登攀史
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リモ山群の登攀しようという最初の試みは、1978年の日本の遠征隊によるものであったが、これはほとんど成功しなかった。1984年にはインド陸軍の遠征隊がリモIVの登頂に成功し、1985年には有名なヒマラヤの経験者ハリシュ・カパディア(英語版)が率いる、十分に組織されたインド/イギリス遠征隊が入山した。このインド/イギリス遠征隊は、デイヴ・ウィルキンソン (Dave Wilkinson) とジム・フォザリンガム (Jim Fotheringham) がリモIIIの初登頂に成功したが、リモIの登頂は果たせなかった。 リモIの初登頂であり、現在のところ唯一の登頂は、フカム・シン (Hukam Singh) と尾形好雄が率いた1988年のインド/日本隊によるものである。この隊は、南側のアイベックス・コル(Ibex Col、「ヤギの鞍部」の意)と呼ばれる重要な鞍部を起点として、南壁を登攀して南西稜に上がった。この経路は、1500mに及ぶ技術を要する登攀を含むものであった。
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登攀史
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クーラカンリは1922年に最初の測量が行なわれて地図に記載され、1958年には中尾佐助が周辺を調査してチベット領内に位置していると報告した。 1986年、神戸大学登山隊を中心とした日中共同隊が、主峰 (7,538m) の初登頂に成功した。 2001年には、東海大学・チベット大学クーラカンリ友好学術登山隊が、中央峰 (7,418m) と東峰 (7,381m) の初登頂に成功した。この登山隊は、この年の日本スポーツ大賞で「優秀団体」に選ばれた。 2008年には、登攀中の日本隊を標高6000m付近で発生した雪崩が襲い、3人の死者を出した同隊は撤退した。
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