ヒマルチュリとは? わかりやすく解説

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ヒマルチュリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/10 07:58 UTC 版)

ヒマルチュリ
Himalchuli
南側から望むヒマルチュリ
最高地点
標高 7,893 m (25,896 ft) [1]
世界第18位
プロミネンス 1,633 m (5,358 ft) [1]
総称 Ultra
座標 北緯28度26分03秒 東経84度38分15秒 / 北緯28.43417度 東経84.63750度 / 28.43417; 84.63750座標: 北緯28度26分03秒 東経84度38分15秒 / 北緯28.43417度 東経84.63750度 / 28.43417; 84.63750[1]
地形
ヒマルチュリ
Himalchuli
ネパール国内の位置
所在地 ネパール ガンダキ県
所属山脈 ヒマラヤ山脈マンシリ・ヒマール
登山
初登頂 1960年 田辺寿、原田雅弘
最容易
ルート
氷河、雪、氷
プロジェクト 山

ヒマルチュリ (Himalchuli) は、ネパール領内のヒマラヤ山脈の一部を成すマンシリ・ヒマール (Himalchuli) において、2番目に標高が高い山。8000メートル級の山のひとつであるマナスルの南方に位置している。主峰は、東峰 (7893m)、西峰 (7540m)、北峰 (7371m) の3峰がある。表記は、2語に区切ってヒマル・チュリ (Himal Chuli) とされることもある。

ヒマルチュリは、500m以上のプロミネンスがある山を対象とした場合、世界で18番目に標高が高い山である。またヒマルチュリは、麓から垂直的に切り立った巨大な岩壁も大きな特徴である。例えば、ヒマルチュリは、南西の麓を流れるマーシャンギ川 (the Marsyangdi River) から7000mもそそり立っているが、川と峰の水平方向の距離は27kmしかない。

登攀史

頂上を目指す準備調査は1950年1954年に行なわれ、最初に頂上を目指した1955年の試みは早々に失敗に終わった。1955年に登頂を試みたのはケニア隊であった[2]日本山岳会は、1958年に登坂ルートを探索する先遣隊として金坂一郎と石坂昭二郎を送った[3]。翌1959年の日本隊は、村木潤次郎を隊長に、松田雄一、石坂昭二郎、田辺寿、竹田寛次、山野井武夫、住吉仙也、木村勝久で編成され[4]、松田・石坂が頂上を目指し標高7,400mまで達したが、悪天候に阻まれ、登頂を断念して撤退した[5]。日本山岳会は、翌々年に次の遠征隊を組織する方針をとった[6]

最初に登頂に成功したのは、1960年慶應義塾大学山岳部OBを中心とした慶大ヒマラヤ登山隊であった。慶大隊は当初アンナプルナ第二峰、次いでダウラギリ第二峰を目標としていたが、1959年末にヒマルチュリ登頂を目指すことに目標を転じ[6]山田二郎を隊長に宮下秀樹、田辺寿、中沢公正、村田茂、大森弘一郎、原田雅弘、河田善明、高塩就、木村勝久で登山隊を編成した[7][8]。頂上を目指し、南西側の「シックル尾根 (Sickle Ridge)」をたどるルートをとり、まず西峰と主峰(東峰)の間の鞍部に上がり、そこに最終の第6キャンプを設けた。そして、5月24日に田辺と原田、次いで翌25日に宮下と中沢と、都合4人が登頂に成功した[8][9]。この登頂では、8000m未満の峰の登頂としては異例なことに、酸素ボンベが使用された。なお、この登山の際に、シェルパ1名が事故死した[10]

ヒマラヤン・インデックス (Himalayan Index) には、この初登頂のほか、5件の登頂が記載されており、さらに失敗に終わった登攀の試みが10件記録されている。一連の登攀は、この山の南側、南西側、南東側から様々なルートで試みられた。

西峰は、主峰の登頂にも挑んだ1978年の「雪と岩の会」による日本隊の2隊員(隊長の尾形好雄と、菅野一寛)が初登頂を果たした[11]。彼らは5月6日にまず第1次アタック隊(藤倉和美、宮崎久夫、田村成典)が主峰に登頂し、次いで翌7日に尾形と菅野が西峰の初登頂に成功した[11][12]。彼らは南側のドーディ・コーラ (the Dordi Khola) から登攀し、西峰には東側からアプローチした。 なお、登山隊は西峰への登山申請を行っていなかった(当時、西峰は立入禁止とされていた)ことから、ネパール政府は「登山規則を破った」として3年間の入国禁止、5年間のネパールにおける登山禁止処分を下している[13]

北峰の初登頂は、1985年に北壁から登攀した韓国隊によって果たされた。

1986年には、登頂を果たした日本大学登山隊4人のうちひとりが、下山途中に滑落して行方不明となった[14]

脚注

  1. ^ a b c High Asia II: Himalaya of Nepal, Bhutan, Sikkim and adjoining region of Tibet”. Peaklist.org. 2014年5月30日閲覧。
  2. ^ “ヒマルチュリを攻撃 ケニヤのヒマラヤ登山隊”. 朝日新聞・ 東京朝刊: p. 6. (1955年3月31日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  3. ^ AFP (1958年10月30日). “カトマンズに帰る ヒマルチュリ先遣隊”. 朝日新聞・ 東京朝刊: p. 9  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  4. ^ “8登山隊員決る 二月中旬ヒマルチュリへ”. 朝日新聞・ 東京朝刊: p. 9. (1958年12月13日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  5. ^ ロイター (1958年10月30日). “頂上目前で断念 日本隊 ヒマルチュリ失敗”. 朝日新聞・ 東京朝刊: p. 9  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  6. ^ a b “ヒマルチュリに転向 慶大ヒマラヤ登山隊”. 朝日新聞・ 東京朝刊: p. 9. (1959年12月30日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  7. ^ “今春、ヒマルチュリへ 慶大隊遠征計画を発表”. 朝日新聞・ 東京朝刊: p. 9. (1960年2月7日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  8. ^ a b 『慶應義塾百年史』、479 (3225)頁。 
  9. ^ “慶応隊ヒマルチュリ初登頂写真第一報”. 朝日新聞・ 東京夕刊: p. 5. (1960年6月8日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  10. ^ “慶大隊が遭難者の供養碑 ヒマルチュリに”. 朝日新聞・ 東京朝刊: p. 9. (1960年6月15日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  11. ^ a b “ヒマルチュリ西峰にも登頂 雪と岩の会”. 朝日新聞・ 東京朝刊: p. 17. (1978年5月26日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  12. ^ 『ヒマラヤ初登頂未踏への挑戦』東京新聞出版部、2009年、74-82頁。 
  13. ^ 日本隊など入国禁止 ネパール「登山規則破った」『朝日新聞』1978年(昭和53年)7月1日朝刊、3版、10面
  14. ^ “登頂後の下山途中で日大隊の1人不明 ネパール・ヒマラヤ”. 朝日新聞・ 東京朝刊: p. 22. (1986年11月3日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧

参考文献

外部リンク



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