北壁の登攀史とは? わかりやすく解説

北壁の登攀史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 21:59 UTC 版)

グランド・ジョラス」の記事における「北壁の登攀史」の解説

1907年 - ジョフリー・ウィンスロープ・ヤングとヨゼフ・クヌベールが北壁周辺初め偵察 1928年 - アルマン・シャルレとエヴァリスト・クルーによりウォーカー側稜本格的な試登が初め行われる。3300mのスラブまで到達1931年 - 二つドイツ隊が試登を行うが、二人墜落死 1933年 - ピエロ・ザネッティ、ジュスト・ジェルヴァズッティ(フランス語版)がクロ側稜を試登し3500mまで到達 1934年 - アルマン・シャルレ、ロベール・グレローズがクロ側稜3600mまで到達 1935年6月28日 - クロ側稜初登攀、マルティン・マイアー、ルドルフ・ペータース 1938年8月1日 - ピエール・アラン(フランス語版)、レイモン・レイナンジェ(フランス語版)がアラン・クラックを見出し初めウォーカー側稜3300m地点スラブ突破 8月6日 - ウォーカー側稜初登攀、リカルド・カシン(イタリア語版)、ルイジ・エスポジト(フランス語版)、ウゴ・ティッツォーニ 1945年7月17日 - ウォーカー側稜をエドゥアール・フレンド(フランス語版)とガストン・レビュファフランス語版)が第二登。 1963年 - ウォーカー側稜冬季初登攀ヴァルテル・ボナッティ、コジモ・ザッペリ(イタリア語版1964年 - ウィンパー側稜初登攀ヴァルテル・ボナッティ、ミシェル・ボーシュ(フランス語版1967年7月22日 - 高田光政日本人初めアルプス三大北壁の全登頂成功1969年7月23日 - 齋藤雅巳北壁ウォーカー単独第2登) 1971年7月17日 - 今井通子登攀し、女性初のアルプス3大北制覇達成1979年3月4日 - ウォーカー冬季単独初登攀長谷川恒男 1982年 -山野井妙子笠松美和子が、北壁ウォーカー稜を女性として冬季初登攀

※この「北壁の登攀史」の解説は、「グランド・ジョラス」の解説の一部です。
「北壁の登攀史」を含む「グランド・ジョラス」の記事については、「グランド・ジョラス」の概要を参照ください。


北壁の登攀史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 15:38 UTC 版)

アイガー」の記事における「北壁の登攀史」の解説

1934年ドイツのW・ベックとG・レーヴィンガーが史上初のアイガー北壁挑戦試みるも、標高2,900付近から滑落して死亡1935年8月21日、マックス・ゼドゥルマイヤーとカール・メーリンガーが北壁挑んだが、第3雪田の上標高3,300m付近凍死するそれ以降、この場所は「死のビバーク」と呼ばれるようになった1936年 - アイガー北壁遭難事故ドイツ語版ナチス成功者にはベルリンオリンピック金メダル与えると約束ドイツのアンドレアス・ヒンターシュトイサー(ドイツ語版)とトニー・クルツ(ドイツ語版)、オーストリアのエドゥアルド・ライナー(ドイツ語版)とヴィリー・アンゲラー(フランス語版)の2隊が競いながら登頂目指し、ヒンターシュトイサーが第1雪田の下の難し振り子トラバース(ヒンターシュトイサー・トラバース)に成功、さらに「死のビバーク」を越え位置まで登攀する。しかしアンゲラー負傷したことから2隊は助け合いながら下山することを決定天候の悪化からビバーク余儀なくされる7月21日ザイル回収してしまったことが仇となってヒンターシュトイサー・トラバースで行き詰る。そのため北壁開いているユングフラウ鉄道アイガーヴァント駅英語版)の坑道からの脱出試みて懸垂下降繰り返したものの、クルツを除く3人が墜落などで相次いで死亡クルツ救助隊元にザイル下りる際にカラビナザイル結び目引っかかる悲劇見舞われてしまう。体力消耗し切っていたクルツ結び目を外すことが出来ずぶら下がったまま、7月22日、「もうダメだ」の一言残して力尽きる救助隊のわずか数メートル上であった。この事件により、ベルン州州議会北壁登攀禁止する決議採択する翌年条件付き緩和)。 1937年、ルードヴィッヒ・フェルク(ドイツ語版)とマティアス・レビッシュ(ドイツ語版)のドイツ・オーストリア混成隊が死のビバーク地点まで到達するものの悪天候により撤退北壁上部からの最初生還者となる。 1938年7月24日、アンデルル・ヘックマイヤー(ドイツ語版)、ルードヴィッヒ・フェルク(ドイツ語版)(ドイツ隊)、ハインリッヒ・ハラーフリッツ・カスパレクオーストリア隊)がアイガー北壁初登攀。両隊は登頂開始時は別々のパーティだったが、後から登頂挑んだドイツ隊がオーストリア隊に追いついた時点同一パーティ組み、初完登成功した1947年、リオネル・テレイ(フランス語版)、ルイ・ラシュナル(フランス語版)(フランス隊)が第二登。 1961年3月12日、トニー・ヒーベラー(ドイツ語版)、トニー・キンショーファー(ドイツ語版)ら4人が冬季初登攀1963年8月3日、ミシェル・ダルベレイ(フランス語版)が単独初登攀芳野満彦大倉大八日本人として初めアイガー北壁挑む岩壁半分以上地点まで達したが、悪天候阻まれ撤退している。 1964年9月3日、デイジー・フォーグが女性初登攀1965年8月16日高田光政日本人初登攀登頂まであと300mというところで、パートナー渡部恒明墜落負傷したため救助求めるために山頂経由した際に達成。しかし渡部その間に謎の墜死遂げた一説には骨折痛み孤独に耐えきれずに自らザイル解いたとも言われている。これを元に新田次郎が「アイガー北壁」という小説書いている。 1966年3月25日、ジョン・ハーリン(英語版率い米英混成チーム冬季直登成功。ユマーリング中のロープ切断のため、ハーリン3月22日墜死したが、彼を讃えてジョン・ハーリン・ルートと呼ばれている。 1969年7月辰野勇中谷三次2人が、日本人としては二番目となる北壁登攀成功辰野当時世界最年少記録21歳)。 1969年8月15日加藤滝男、今井通子加藤保男根岸知、天野博文久保進の6人が「赤い壁」直登ルート拓く加藤滝男が山頂直下ザイル無し墜落したが、運良く固定ザイル引っかかって九死に一生得た1970年1月27日森田勝岡部勝、羽鳥祐治、小見山誓雄4人が、冬季日本人初登攀1970年3月21日遠藤二郎星野隆男、小川信之、三羽勝、嶋村幸男、高久幸雄、深田良一の7人が、冬季直登ルート日本人初登攀1978年3月9日長谷川恒男冬季単独初登攀1981年8月25日スイス人ウエリ・ビューラーが8時間登攀2008年2月13日ウーリー・ステックが2時間4733秒で登攀し、自らが持つ冬期単独登攀最速記録更新2011年4月20日、ダニ・アーノルドが2時間2833秒で登攀固定ロープ使用 2015年11月16日ウーリー・ステックが2時間2250秒で登攀し、冬期単独登攀最速記録更新

※この「北壁の登攀史」の解説は、「アイガー」の解説の一部です。
「北壁の登攀史」を含む「アイガー」の記事については、「アイガー」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「北壁の登攀史」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「北壁の登攀史」の関連用語

北壁の登攀史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



北壁の登攀史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのグランド・ジョラス (改訂履歴)、アイガー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS