北壁の登攀史
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1907年 - ジョフリー・ウィンスロープ・ヤングとヨゼフ・クヌベールが北壁周辺を初めて偵察 1928年 - アルマン・シャルレとエヴァリスト・クルーによりウォーカー側稜の本格的な試登が初めて行われる。3300mのスラブまで到達。 1931年 - 二つのドイツ隊が試登を行うが、二人が墜落死 1933年 - ピエロ・ザネッティ、ジュスト・ジェルヴァズッティ(フランス語版)がクロ側稜を試登し3500mまで到達 1934年 - アルマン・シャルレ、ロベール・グレローズがクロ側稜3600mまで到達 1935年6月28日 - クロ側稜初登攀、マルティン・マイアー、ルドルフ・ペータース 1938年8月1日 - ピエール・アラン(フランス語版)、レイモン・レイナンジェ(フランス語版)がアラン・クラックを見出し、初めてウォーカー側稜3300m地点のスラブを突破 8月6日 - ウォーカー側稜初登攀、リカルド・カシン(イタリア語版)、ルイジ・エスポジト(フランス語版)、ウゴ・ティッツォーニ 1945年7月17日 - ウォーカー側稜をエドゥアール・フレンド(フランス語版)とガストン・レビュファ(フランス語版)が第二登。 1963年 - ウォーカー側稜冬季初登攀、ヴァルテル・ボナッティ、コジモ・ザッペリ(イタリア語版) 1964年 - ウィンパー側稜初登攀、ヴァルテル・ボナッティ、ミシェル・ボーシュ(フランス語版) 1967年7月22日 - 高田光政(日本人で初めてアルプス三大北壁の全登頂に成功) 1969年7月23日 - 齋藤雅巳(北壁ウォーカー稜単独第2登) 1971年7月17日 - 今井通子が登攀し、女性初のアルプス3大北壁制覇を達成。 1979年3月4日 - ウォーカー稜冬季単独初登攀 、長谷川恒男 1982年 -山野井妙子、笠松美和子が、北壁ウォーカー稜を女性としては冬季初登攀。
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北壁の登攀史
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1934年、ドイツのW・ベックとG・レーヴィンガーが史上初のアイガー北壁挑戦を試みるも、標高2,900m付近から滑落して死亡。 1935年8月21日、マックス・ゼドゥルマイヤーとカール・メーリンガーが北壁に挑んだが、第3雪田の上の標高3,300m付近で凍死する。それ以降、この場所は「死のビバーク」と呼ばれるようになった。 1936年 - アイガー北壁遭難事故(ドイツ語版)ナチスが成功者にはベルリンオリンピックの金メダルを与えると約束。ドイツのアンドレアス・ヒンターシュトイサー(ドイツ語版)とトニー・クルツ(ドイツ語版)、オーストリアのエドゥアルド・ライナー(ドイツ語版)とヴィリー・アンゲラー(フランス語版)の2隊が競いながら登頂を目指し、ヒンターシュトイサーが第1雪田の下の難しい振り子トラバース(ヒンターシュトイサー・トラバース)に成功、さらに「死のビバーク」を越える位置まで登攀する。しかしアンゲラーが負傷したことから2隊は助け合いながら下山することを決定、天候の悪化からビバークを余儀なくされる。7月21日、ザイルを回収してしまったことが仇となってヒンターシュトイサー・トラバースで行き詰る。そのため北壁に開いているユングフラウ鉄道・アイガーヴァント駅(英語版)の坑道からの脱出を試みて懸垂下降を繰り返したものの、クルツを除く3人が墜落などで相次いで死亡。クルツも救助隊の元にザイルで下りる際にカラビナにザイルの結び目が引っかかる悲劇に見舞われてしまう。体力を消耗し切っていたクルツは結び目を外すことが出来ずにぶら下がったまま、7月22日、「もうダメだ」の一言を残して力尽きる。救助隊のわずか数メートル上であった。この事件により、ベルン州の州議会は北壁の登攀を禁止する決議を採択する(翌年、条件付きで緩和)。 1937年、ルードヴィッヒ・フェルク(ドイツ語版)とマティアス・レビッシュ(ドイツ語版)のドイツ・オーストリア混成隊が死のビバーク地点まで到達するものの悪天候により撤退。北壁上部からの最初の生還者となる。 1938年7月24日、アンデルル・ヘックマイヤー(ドイツ語版)、ルードヴィッヒ・フェルク(ドイツ語版)(ドイツ隊)、ハインリッヒ・ハラー、フリッツ・カスパレク(オーストリア隊)がアイガー北壁初登攀。両隊は登頂開始時は別々のパーティだったが、後から登頂に挑んだドイツ隊がオーストリア隊に追いついた時点で同一パーティを組み、初完登に成功した。 1947年、リオネル・テレイ(フランス語版)、ルイ・ラシュナル(フランス語版)(フランス隊)が第二登。 1961年3月12日、トニー・ヒーベラー(ドイツ語版)、トニー・キンショーファー(ドイツ語版)ら4人が冬季初登攀。 1963年8月3日、ミシェル・ダルベレイ(フランス語版)が単独初登攀。芳野満彦、大倉大八が日本人として初めてアイガー北壁に挑む。岩壁の半分以上の地点まで達したが、悪天候に阻まれ撤退している。 1964年9月3日、デイジー・フォーグが女性初登攀。 1965年8月16日、高田光政が日本人初登攀。登頂まであと300mというところで、パートナーの渡部恒明が墜落・負傷したため救助を求めるために山頂を経由した際に達成。しかし渡部はその間に謎の墜死を遂げた。一説には骨折の痛みと孤独に耐えきれずに自らザイルを解いたとも言われている。これを元に新田次郎が「アイガー北壁」という小説を書いている。 1966年3月25日、ジョン・ハーリン(英語版)率いる米英独混成チームが冬季直登に成功。ユマーリング中のロープ切断のため、ハーリンは3月22日に墜死したが、彼を讃えてジョン・ハーリン・ルートと呼ばれている。 1969年7月、辰野勇、中谷三次の2人が、日本人としては二番目となる北壁登攀に成功。辰野は当時の世界最年少記録(21歳)。 1969年8月15日、加藤滝男、今井通子、加藤保男、根岸知、天野博文、久保進の6人が「赤い壁」直登ルートを拓く。加藤滝男が山頂直下でザイル無しで墜落したが、運良く固定ザイルに引っかかって九死に一生を得た。 1970年1月27日、森田勝、岡部勝、羽鳥祐治、小見山誓雄4人が、冬季日本人初登攀。 1970年3月21日、遠藤二郎、星野隆男、小川信之、三羽勝、嶋村幸男、高久幸雄、深田良一の7人が、冬季直登ルート日本人初登攀。 1978年3月9日、長谷川恒男が冬季単独初登攀。 1981年8月25日、スイス人ウエリ・ビューラーが8時間で登攀。 2008年2月13日、ウーリー・ステックが2時間47分33秒で登攀し、自らが持つ冬期単独登攀の最速記録を更新。 2011年4月20日、ダニ・アーノルドが2時間28分33秒で登攀 ※固定ロープ使用 2015年11月16日、ウーリー・ステックが2時間22分50秒で登攀し、冬期単独登攀の最速記録を更新。
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