村山団地と日産自動車村山工場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 07:14 UTC 版)
「村山団地 (東京都)」の記事における「村山団地と日産自動車村山工場」の解説
単一の都営団地で5,000戸超という規模は都内でもまれで、村山団地に次ぐ規模では北区の都営桐ケ丘団地(敷地面積45.9ha、建替前の総戸数5,020戸・146棟)があるが、桐ケ丘団地が20年以上かけて建設されているのに対し、村山団地はわずか2年で完成している。 村山団地は、高度経済成長期の東京都内への労働力人口流入を受け、住宅と公共施設をあわせて計画的に配置し、良好な住環境の住宅を供給することを目的として東京都により建設された。なお当時の公営住宅は、現在のような低所得者層への社会福祉的な位置づけではなく、家賃支払能力を有する勤労者層向けに賃貸住宅の大量供給を目的としていた(公営住宅#歴史も参照)。 立川飛行機出身の技術者らが設立したプリンス自動車工業は、1959年頃から工場用地取得を検討し、当時の村山町と砂川町(現:立川市)にまたがる広大な敷地を入手した。工場建設前の敷地には人家はわずか牧畜農家1軒しかなかった。1962年にプリンス自動車工業村山工場として操業開始、ほどなく1966年8月1日付で同社は日産自動車に合併され、日産自動車村山工場となった。 村山団地は、この村山工場の労働者らを受け入れるべく建設が進められたマンモス都営団地であり、村山団地の歴史はそのまま日産自動車村山工場の歴史でもあった。 入居開始翌年の1967年(昭和42年)10月には、村山団地連合自治会が発足している。 1999年10月、カルロス・ゴーンによる日産リバイバルプラン発表により村山工場の閉鎖が決定。2001年3月に日産村山工場は閉鎖された。 「日産自動車村山工場」も参照
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