前1千年紀以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 15:08 UTC 版)
カッシート人の王朝が崩壊した前12世紀以降、ニップルの状況はあまりわからなくなる。都市として消滅したわけではなく、イシン第2王朝(前12世紀半ば-前11世紀)や「海の国」第2王朝(前11世紀)時代には建築活動と宗教的生活が継続しており、「海の国」第2王朝の王シンバル・シパク(英語版)の時代にはエ・クル神殿の修復が行われている。しかし、同時にこれはカッシート滅亡以降、前8世紀以前におけるニップルでの活動を示す最後の証拠史料であり、また1948年以降の調査では、カッシート王朝滅亡以降200年余りにわたる時期の考古学的痕跡がほとんど見つかっていない。明らかに当時のニップルの人口は劇的に減少し、ジッグラト周辺に僅かな住民が暮らすだけとなっていたと見られる。その後にはニップルは文書史料に全く登場しなくなる。この事実はニップルが完全に居住地として打ち捨てられたことを示唆するが、ジッグラトとその付属施設は前10世紀と前9世紀の間も幾人もの王によって修繕され続けていた可能性がある。ニップルの周囲は砂漠と化していたが、少数の役人が常駐してたかもしれない。ニップルの衰退と放棄は、ニップルを流れていたユーフラテス川の支流が西に移動したことと関係しているであろう。 前9世紀以降、アッシリアがオリエント世界全体を包括する帝国を構築した(新アッシリア帝国)。ニップルはこの帝国の下で再び繁栄を取り戻した。アッシリア末期の王アッシュルバニパル(在位:前668年-前631/627年頃)はニップルのエ・クル神殿をかつてない規模で再建し、およそ58メートル×39メートルの規模を持つジッグラトを建設した。しかし、アッシリアの崩壊の後、ニップルの宗教的中心としての役割は次第に失われた。それでも、経済的にはなおバビロニアの重要な都市の1つであったと見られ、特にハカーマニシュ朝(アケメネス朝、前550年頃-前330年)の王フシャヤールシャ1世(クセルクセス1世、在位:前486年-前465年)治世中のバビロン市破壊の後には、バビロニアのサトラペイア(属邦、ダフユ)の経済的な中心としての役割を果たしたかもしれない。前4世紀のアレクサンドロス3世による征服を経て、バビロニアの支配権を握ったセレウコス朝(前311年-前63年)の時代にはニップルはなお相当数の住民を抱えていたと見られ、かつてのエ・クル神殿が要塞に転用される一方、神殿の敷地内は住宅と街路で満ちた。ニップルの要塞はアルシャク朝(パルティア、前247年-後224年)時代も継続して使用され、前250年頃まで改築が繰り返された。しかしながら、パルティア時代に入って以降、紀元前後頃までのニップルやその周辺(ウルク等)について記す文書史料はほとんどなく、当時の活動を伝える考古学的遺物も存在しないことから、1世紀余りにわたってバビロニア中心部での活動が低下した時期があった可能性もある。 サーサーン朝(226年頃-651年)時代にはかつてのエ・クル神殿の場所に築かれた要塞も墓地として使用されるだけとなった。それでも古代のジッグラトの周りに泥レンガの小屋が建てられて人々はそこに住むようになり、小村落としてニップルにおける居住は続いた。バビロニアに相当する地域はイスラーム時代初期には大きく衰退していたものと思われ、9世紀頃のアラブの地理学者たちがこの地方に言及することはほとんどない。ニップルにおける居住の痕跡は800年頃に途絶える。一方で、キリスト教の東方教会においてはニップル主教が10世紀まで任命され続けていた。この称号は10世紀当時にはニップルの北西50キロメートルの位置にあるニル(Nil)の町のものと統合されていたが、ニップルの古さ、そしてかつての重要性故に、教会の権限が移転した後にもこの称号には権威が残されていたと考えられるであろう。
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