前2千年紀前半
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 16:30 UTC 版)
「古代オリエントの編年」の記事における「前2千年紀前半」の解説
前2千年紀前半の編年の鍵となる記録がアンミ・ツァドゥカ王の金星粘土板(英語版)である。これはハンムラビ王の4代後のバビロニア王であるアンミ・ツァドゥカの時代にオリジナルが記録されたと考えられる占星術の楔形文字粘土板文書の一部(第63書番)で、21年間に渡る金星の天文観測記録を残している。しかも、同書板の10行目にアンミ・ツァドゥカ王の統治第8年目の年名が記されている。これによって絶対年代の同定可能な編年上のポイントが提供されている。金星の軌道は周期的に一致するため、アンミ・ツァドゥカ王の金星粘土板の記録に整合するように金星が観測されるポイントは複数ある。これらのうち他の地域の編年との矛盾しないポイントは3箇所あり、それらは56/64年の間を置いて訪れるため、それぞれの学説の間で56年または64年、絶対年代の想定が異なる高年代説、中年代説、低年代説という3つの説が提案されている。これらの主要学説はアンミ・ツァドゥカの統治第8年を基準としている。アンミ・ツァドゥカ王の統治第8年の同定はハンムラビの在位年を定義する。それぞれに基づいてバビロン第1王朝の王ハンムラビの在位期間の絶対年代を割り当てると、前1848年-1806年(高年代説)、前1792年-前1750年(中年代説)、前1728年-前1686年(低年代説)となる。 また、Vahe Gurzadyaは最も最近の研究で、金星の基本的な8年の周期がより良い指標であることを主張し、低年代説よりも更に32年、想定年次を後にずらした超低年代説を提唱している。日食記録や他の手段を用いて編年を確定する試みは他にもあるが、それらは未だ広い支持を得ていない。 中年代説(ハンムラビの在位年を前1792年-前1750年とする)は各種の文献で一般的に使用され、直近の考古学や古代オリエント史の教科書もそれを使用し続けている。低年代説はその次に有力であり、高年代説と超低年代説(ultra-low chronologies)は明らかに少数派の見解である。なお、アンミ・ツァドゥカ王の金星粘土板(英語版)については後述する問題もあり、その記述に絶対の信頼が置けるものではない。前21世紀初頭についての年輪年代学の成果は基本的に低年代説を反証している 。ただし、後述するように現時点において古代オリエントの連続した年輪年代学の編年は存在しない。アナトリアの樹木による青銅器時代と鉄器時代の相対編年が作成されているが、連続した編年が開発されるまでは古代オリエントの編年を改善するための年輪年代学の有効性は限られている。疑問符付きとなる期間の大部分について、低年代説の編年は中年代説の対応する編年に64年を加算することによって算出することができる(例えば、低年代説の前1728年は中年代説の前1792年に対応する)。 以下の表は競合する複数の説の概要を示し、いくつかの基準となる年次の中年代説との差分を一覧にしている。 学説アンミ・ツァドゥカ王の統治第8年ハンムラビ王の統治期間バビロン第1王朝の滅亡±超低年代説 前1542年 前1696年-前1654年 前1499年 +96年 低年代説 前1574年 前1728年-前1686年 前1531年 +64年 中年代説 前1638年 前1792年-前1750年 前1595年 ±0年 高年代説 前1694年 前1848年-前1806年 前1651年 -56年 このアンミ・ツァドゥカ王の統治第8年を基盤に、『シュメール王朝表』や『バビロニア王名表』、『アッシリア王名表』、『アッシリア・バビロニア関係史』、『バビロニア年代記"P"』のような王名表、年代誌から得られる王の在位期間、各王の通時性を考慮することで前2千年紀の編年が組み立てられている。例えば、前2千年紀初頭にバビロニアで勢力を持ったイシン第1王朝とラルサはそれぞれ王名表や年名(王の統治各年に割り当てられた固有の名前)の記録を残している。そして、ラルサの最後の王リム・シン1世の統治第30年の名称は「イシンを滅ぼした年」である。年名はこの時代には前年の出来事に基づいて記録されたので、実際にはラルサのリム・シン1世がイシン第1王朝を滅ぼしたのは統治第29年ということになる。一方で、イシン第1王朝最後の王ダミク・イリシュの在位期間は『シュメール王朝表』で23年間となっているので、ダミク・イリシュの統治第23年はリム・シン1世の統治第29年に該当する事がわかる。同じような手順で、バビロンの王ハンムラビとリム・シン1世の間の相対編年を割り出し、ハンムラビの4代後の王であるアンミ・ツァドゥカの在位期間と連結させることで、高・中・低年代説に基づいたイシン第1王朝やラルサの絶対年代を割り出すことができる。仮に中年代説を採用した場合、ダミク・イリシュの統治第23年=リム・シン1世の統治第29年=ハンムラビの統治第1年の2年前=前1794年となる。 以下の表は上に述べた相対年代と、中年代説に基づく絶対編年を示したものである。 中年代説に基づく絶対編年イシン王ダミク・イリシュの統治年ラルサ王リム・シン1世の統治年バビロン王ハンムラビの統治年前1796年 21年 27年 - 前1795年 22年 28年 - 前1794年 23年 29年 - 前1793年 - 30年 - 前1792年 - 31年 1年 前1791年 - 32年 2年 (中略) (中略) (中略) (中略) 前1765年 - 58年 28年 前1764年 - 59年 29年 前1763年 - 60年 30年 ただし、これらの史料も相互に矛盾する記録、版間の差分、記録者による作為など様々な要素によって完全な整合性が取れないことがある。そのため王の即位順などについては問題ないにせよ、相対年代と絶対年代の割り当ては学者によって細部が異なる場合もある。例えば、イシン第1王朝の歴代王については『シュメール王朝表』の3つの写本と独立した王名表の2つの写本がある。後者の王名表はイシン王ダミク・イリシュに4年の在位期間を与えており、『シュメール王朝表』は23年の在位期間を与えている。またラルサの王名表はリム・シン1世の在位期間を61年とするが、他の史料との相互関係から実際には60年と考えられている。天文学上のイベントを起点に各王の在位年数を積算して年代を割り出す場合、このような矛盾する記録に対してどのような処理を行うかによって当然年代設定上の差異が生じる。
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