前671年-前670年の陰謀
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「エサルハドン」の記事における「前671年-前670年の陰謀」の解説
エジプトにおけるエサルハドンの勝利の直後、ハッラーンの新たな預言についての報せが帝国中に広まった。エサルハドンがエジプトを征服し、以前にハッラーンで下された預言が証明されたことで、ハッラーンの神託は信頼できるものと考えられるようになっていた。神がかり状態となった女性が語った預言は次のようなものであった。 これはヌスク神の御言葉である。王権はサシ(Sasî)に属する。我はセンナケリブの名と種と打ち砕く! この預言が意味するところは明らかであった。この中でセンナケリブの子孫全てが僭称者であると宣言されたことによって、エサルハドンに対する反乱に有用な宗教的基盤が提供された。エサルハドンの肌の病変はハッラーンを訪れていた最中に現れた可能性があり、これが彼の地位が不法なものと宣言された理由であったかもしれない。王権を持つ者として宣言されたサシが何者であるのか不明であるが、かつてのアッシリア王族と関係を持つ人物であったことは間違いなく、そうでなければ彼が王位適格者と見なされることは不可能であったであろう。エサルハドンの祖父サルゴン2世の子孫であった可能性もある。サシは帝国全土からの支持を速やかに獲得することに成功し、エサルハドンの宦官長アッシュル・ナツィル(前出。エジプトの攻略を代理指揮したとみられる人物)さえもサシの側に立った エサルハドンがこの陰謀について把握するのにさほど時間はかからなかった。彼の妄想症の故に、エサルハドンは巨大な臣下の情報ネットワークを帝国に張り巡らしており、彼らはエサルハドンに対して企まれたいかなる行動についてでも耳にしたらエサルハドンに報告することを誓っていた。彼らからの報告を通じて、エサルハドンはサシの支持者たちがハッラーンだけではなく、バビロンとアッシリアの中核地帯でも活動していたことを知っていた。しばらくの間、エサルハドンはサシ一派の活動についての情報を収集し、また自らの命を危ぶんで前回の「身代わり王」の儀式が終了してから僅か3ヶ月後、前671年に2度目の「身代わり王」の儀式を執り行った。 「身代わり王」の儀式が終了するとすぐに、身を隠していたエサルハドンは表に姿を現し、陰謀に参加した人々を残酷に殺害して彼治世中2度目の粛清を行った。サシと彼に王権の預言を告げた女性の運命は不明であるが、恐らく捕らえられて処刑されたであろう。粛清された役人が広範囲にわたったため、アッシリアの行政機構は何年もの間、苦しむこととなった。670年の最初の数か月、リンム(紀年官。就任者の名前がその年の年名として用いられる)職は任命されなかった。これはアッシリアの歴史において非常に珍しいことであった。サシの支持者の住居であると考えられている様々な都市の複数の建物の遺構は、670年に破壊されたものであると見られている。この陰謀の後、エサルハドンは治安をかなり引き締めた。彼は自分への謁見を難しくするため、宮廷の階級に新たに2つの位を導入し、宮殿へのアクセスをコントロールする役人の数を制限した。
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