ローマ侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 05:56 UTC 版)
1848年革命の震源地イタリアでは、革命派の力はまだ温存されていた。オーストリア帝国により国土の北半分を占領支配されていたイタリアでは、ナショナリズムの機運によって統一運動が盛んになっていた。 ローマでは教皇ピウス9世の信頼の厚いローマ暫定政府首班ペレグリーノ・ロッシ(英語版)が暗殺されて暴動が起こり、教皇自らも市民軍によって軟禁される。1848年11月24日、教皇はローマを放棄してガエータに逃亡していた。1849年2月9日、ジュゼッペ・マッツィーニを中心としたローマ共和国が成立した。ルイ・ナポレオンは大統領選で勝利するためにカトリック勢力の支持を得ようと考え、教皇のローマ帰還を支援する約束をしていた。4月に入ると、ルイ・ナポレオンはオーストリアの南下を阻むためにイタリア派兵を決定した。5月の初め、フランス軍がローマに到着し、市内に入城しようとした際、ローマ共和国軍の激しい抵抗に遭って撃退されるという事件が起こる。ルイ・ナポレオンはローマに進軍してローマ共和国を崩壊させるべく増援を決定した。 しかし、共和派新聞は出兵による外国革命への干渉を禁じた第二共和国憲法の条文を理由に政権批判を加えた。山岳党はイタリア問題を政治の焦点として定め選挙戦を展開し、議席を伸ばすことに成功した。6月に入ると再びローマ攻撃のニュースが入り、これを機にルドリュ・ロランは民衆に6月13日にデモ(フランス語版)を呼びかけ、8000人の群衆がシャトー・ドーの広場に参集した。第二次オディオン・バロー内閣(英語版)は事態に狼狽したが、これを好機と見たルイ・ナポレオンは左派勢力の一掃を図るべく戒厳令を発し、シャンガルニエ将軍とともにデモ隊鎮圧のために騎兵隊を派遣して群衆を一掃した。ルドリュ・ロランをはじめ山岳党の議員たちは拠点とした工業技術学院に立て籠もって抵抗したが、ルドリュ・ロランはベルギーに逃亡し、逃げ遅れた30名の議員が逮捕された。 ルイ・ナポレオンは山岳党の蜂起を機に秩序党からクーデターを起こして共和派を一掃するように圧力をかけられた。 しかし、ルイ・ナポレオンは腹心のヴィクトール・ド・ペルシニーを伴なって全国遊説に赴き、秩序党の陰謀を世間に公表して共和政を守るべきだと訴えた。彼は秩序党の手先になるほど愚かではなく、左の革命と右のクーデターを拒否して政治の混乱に疲れた国民の信頼を獲得し、左右両派の対立を利用して自身の支持率向上の道具としたのである。また、復権したピウス9世が反動政治を強化しつつあることを知り、「フランスはイタリアの自由を圧殺するために軍隊を派遣したわけではない」としてこれを諌める書簡を送った。これは秩序党の反感を煽るものとなり、大統領と秩序党の決別のきっかけとなった。まもなく第二次オディオン・バロー内閣は退陣、ルイ・ナポレオン自身が新内閣の首班となって組閣をおこなう。
※この「ローマ侵攻」の解説は、「フランス第二共和政」の解説の一部です。
「ローマ侵攻」を含む「フランス第二共和政」の記事については、「フランス第二共和政」の概要を参照ください。
- ローマ侵攻のページへのリンク