コリオラヌス率いるウォルスキ軍のローマ侵攻とは? わかりやすく解説

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コリオラヌス率いるウォルスキ軍のローマ侵攻(紀元前491年-紀元前488年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 15:37 UTC 版)

ローマ・ウォルスキ戦争」の記事における「コリオラヌス率いるウォルスキ軍のローマ侵攻(紀元前491年-紀元前488年)」の解説

紀元前493年コリオリ戦いで著名となったコリオラヌスは、ローマでパトリキプレブス反目生じると、プレブス寄り政策批判したこのためプレブス怒りを買い、ローマから追放され敵国であるウォルスキに逃れ、その指導者であるアッティウス・トゥリッウス(en)と結託した。 他方ローマで紀元前491年に大競技会レギッルス湖畔の戦い祝したとされる)が開催されたが、多くのウォルスキ人もこれに参加するためにローマ滞在してた。トゥリッウスはウォルスキ人のローマへ敵意再燃させる方法探しており、この機会利用した。彼は両執政官内謁し、ウォルスキの若者ローマ人諍い起こす可能性があると伝えた執政官はこの懸念元老院伝え元老院はウォルスキ人をローマから追放することを決定した。 トゥリッウスは、フェレンティナ女神en)に捧げられ聖なる追放されたウォルスキ人たちと会いローマ対す悪感情たきつけついにはローマ宣戦布告させた。 紀元前489年、ついにコリオラヌスとトゥリッウスは、ウォルスキ軍を率いてローマ同盟都市植民市ローマ領内へと進撃した。キルケイ(en)のローマ人植民者追放された。続いてかつてはウォルスキ都市であったサトウリクム(en)、ロングラ(en)、ポルッスカ(en)、コリオリ奪回した。さらにウォルスキ軍はラティウム都市であるラウィニウムコルビオen)、ウィテリッア(en)、トゥレビア(en)、ラウィキ(en)、ペドゥム(en)を占領した。 ウォルスキ軍はさらに進んでローマ包囲した。ウォルスキは野営地当初ローマから5マイルのクルイウス防御壕(en近く設営し周囲略奪行った。コリオラヌスは略奪対象プレブス資産限りパトリキのそれには手をつけなかった。 既に紀元前488年となっており、執政官スプリウス・ナウティウス・ルティルスセクストゥス・フリウスローマ防衛準備進めたが、プレブス戦いではなく講和求めた元老院召集され、敵に講和求めることが合意された。まず交渉のために使節団派遣されたが、コリオラヌスは交渉拒否した二度目使節団がウォルスキ軍に派遣されたが、野営地に入ることすら拒否された。続いて神官派遣されたがやはり得るものはなかった。 最後にローマ既婚夫人達が懇願向かったが、ここにはコリオラヌスの母と妻、それに二人の息子参加していた。ついにコリオラヌスは説得され、ウォルスキ軍野営地後退させ、ローマ包囲解いたローマはこれらの女性貢献を讃え、運命の女神フォルトゥーナ捧げる神殿建設した。 これ以降のコリオラヌスの消息不明であるが、戦争大きな役割は果たさなかったと思われるその後ウォルスキ軍はローマ領土再度侵入した。そこにアエクイ軍も加わったが、アエクイはトゥリッウスを司令官とすることに反対した。結果両者戦争至り双方共に戦力大幅に低下することとなった

※この「コリオラヌス率いるウォルスキ軍のローマ侵攻(紀元前491年-紀元前488年)」の解説は、「ローマ・ウォルスキ戦争」の解説の一部です。
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