コリオラヌス率いるウォルスキ軍のローマ侵攻(紀元前491年-紀元前488年)
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「ローマ・ウォルスキ戦争」の記事における「コリオラヌス率いるウォルスキ軍のローマ侵攻(紀元前491年-紀元前488年)」の解説
紀元前493年のコリオリの戦いで著名となったコリオラヌスは、ローマでパトリキとプレブスの反目が生じると、プレブス寄りの政策を批判した。このためにプレブスの怒りを買い、ローマから追放され、敵国であるウォルスキに逃れ、その指導者であるアッティウス・トゥリッウス(en)と結託した。 他方ローマでは紀元前491年に大競技会(レギッルス湖畔の戦いを祝したとされる)が開催されたが、多くのウォルスキ人もこれに参加するためにローマに滞在してた。トゥリッウスはウォルスキ人のローマへの敵意を再燃させる方法を探しており、この機会を利用した。彼は両執政官に内謁し、ウォルスキの若者がローマ人と諍いを起こす可能性があると伝えた。執政官はこの懸念を元老院に伝え、元老院はウォルスキ人をローマから追放することを決定した。 トゥリッウスは、フェレンティナ女神(en)に捧げられた聖なる林で追放されたウォルスキ人たちと会い、ローマに対する悪感情をたきつけ、ついにはローマに宣戦布告させた。 紀元前489年、ついにコリオラヌスとトゥリッウスは、ウォルスキ軍を率いてローマの同盟都市、植民市、ローマ領内へと進撃した。キルケイ(en)のローマ人植民者は追放された。続いて、かつてはウォルスキ都市であったサトウリクム(en)、ロングラ(en)、ポルッスカ(en)、コリオリを奪回した。さらにウォルスキ軍はラティウム都市であるラウィニウム、コルビオ(en)、ウィテリッア(en)、トゥレビア(en)、ラウィキ(en)、ペドゥム(en)を占領した。 ウォルスキ軍はさらに進んでローマを包囲した。ウォルスキは野営地を当初ローマから5マイルのクルイウス防御壕(en)近くに設営し、周囲の略奪を行った。コリオラヌスは略奪対象をプレブスの資産に限り、パトリキのそれには手をつけなかった。 既に紀元前488年となっており、執政官スプリウス・ナウティウス・ルティルスとセクストゥス・フリウスはローマの防衛準備を進めたが、プレブスは戦いではなく講和を求めた。元老院が召集され、敵に講和を求めることが合意された。まず交渉のために使節団が派遣されたが、コリオラヌスは交渉を拒否した。二度目の使節団がウォルスキ軍に派遣されたが、野営地に入ることすら拒否された。続いて神官が派遣されたがやはり得るものはなかった。 最後にローマの既婚夫人達が懇願に向かったが、ここにはコリオラヌスの母と妻、それに二人の息子も参加していた。ついにコリオラヌスは説得され、ウォルスキ軍野営地を後退させ、ローマの包囲を解いた。ローマはこれらの女性の貢献を讃え、運命の女神フォルトゥーナに捧げる神殿を建設した。 これ以降のコリオラヌスの消息は不明であるが、戦争で大きな役割は果たさなかったと思われる。 その後ウォルスキ軍はローマ領土に再度侵入した。そこにアエクイ軍も加わったが、アエクイはトゥリッウスを司令官とすることに反対した。結果両者は戦争に至り、双方共に戦力を大幅に低下することとなった。
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