戦略的状況
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クルスクの戦いの後、ドイツ国防軍最高司令部は東部戦線において赤軍に対してすでに大規模な攻撃を行うことはもはやできなかった。クルスク後の長い退却の間、ドイツ軍とそれを支援するドイツ空軍はドニエプル川を渡り西へ移動、ボータン線に沿って防衛を固めた。ソビエト赤軍による連戦と空からの襲撃の中、小さないかだやボートで何千ものドイツ軍将兵がドニエプル川を横断することになった。ドイツ軍は多大な将兵と軍需物資を失い、経験豊富な部隊の多くがその戦力を減じることとなった。これらのことはドイツ軍がソビエト赤軍に対して防衛を継続しなければならないことを意味していた。時折、ドイツ軍の戦術的反撃はかなりの成功を収めていたものの、これらはクルスクにおける戦略的主導権を取り戻すことにはならなかった。ドイツ軍の将兵、軍需品、後方支援が弱体化する間、ソビエト赤軍は着実に強化されており、このため、ソビエト赤軍が大きく数の優勢を形成することとなった。 8月中旬までにドイツ総統アドルフ・ヒトラーはソビエト赤軍の攻撃を抑えることができないと判断、一連の防衛陣地を建設し、ソビエト赤軍の攻撃を抑えるよう命令、さらにドイツ軍がドニエプル川のヴォータン線を厳守するよう要求した。 一方、ソ連側ではヨシフ・スターリンがこれまでに占領された領域の回復を続行することを決意しており、翌年始めに開始した。ウクライナの工業地帯は人口稠密地帯であり、さらに炭鉱、他の鉱山は貴重な資源をソ連に供給することから最優先とされた。攻撃の主軸は、戦線の大部分が安定していた北側面、及びアゾフ海に沿った南側面を中心としており、南東で行われることになった。
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戦略的状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/11 06:47 UTC 版)
「タウロメニオン包囲戦」の記事における「戦略的状況」の解説
メッセネを抑えると、メッシーナ海峡を支配し、600隻のカルタゴ艦隊全体が停泊可能な港を得、シケリアとイタリア南部の間の海上交通を妨害することも可能となる。しかしヒミルコはメッセネに基地を置くことはしなかった。おそらくカルタゴから遠く離れた都市を維持する自信がなかったものと思われる。またメッセネを脱出したギリシア人は、近郊の丘陵地帯の要塞に立てこもっており、これらを落していくには時間がかかる。ディオニュシオスに時間を与えると、シュラクサイが強化される恐れがある。カルタゴ軍の最終目的はシュラクサイに勝利することであり、メッセネは前座に過ぎなかった。カルタゴ本国には常備軍がなく、援軍を送るには傭兵の募集からはじめることとなり、時間がかかった。かといって、ヒミルコ自身の軍の一部をメッセネ守備に割くと、ディオニュシオスを攻撃する兵力が不足してしまう。もちろん、メッセネを離れた後に、背後のギリシア要塞からの敵対行動を完全に無視することはできなかった。彼がとった解決策は間接的アプローチと呼ばれる種類のもので、単純かつ巧妙なものであった。
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戦略的状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/23 03:46 UTC 版)
カンナエの戦いの敗北以降、イタリア南部のいくつかの都市はローマとの同盟から離脱し、カルタゴ側についていた。ハンニバルの軍はカンパニアで活動しており、ハンノが率いる別のカルタゴ軍がブルティウム(現在のカラブリア州)で活動していた。ローマもいくつかの軍を出動させてはいたが、ハンニバルとの直接戦闘は避けて、可能な時にその同盟軍を攻撃していた。 イベリア半島では、ハンニバルの弟であるハスドルバル・バルカが、エブロ川河口の海戦の敗戦以来、スキピオ兄弟との小競り合いを繰り返していた。紀元前216年になると、カルタゴ元老院はハスドルバルに援軍を送り、イタリアへ侵攻するように命じた。アフリカでは、やはりハンニバルの弟であるマゴ・バルカが歩兵12,000、騎兵1,500および戦象20からなる軍を率い、ハンニバルに合流するように命令されていた。 ローマは紀元前237年以来、サルディニアの原住民としばしば衝突していた。紀元前216年には反乱の機は熟していた。サルディニアにはローマ軍一個軍団が駐屯していたが、疾病で戦力は低下していた。法務官クィントゥス・ムキウス・スカエウォラもまた病気を得ていた。ローマからの給与も補給も不規則であり、サルディニアの部族長であるハンプシコラはカルタゴに援助を求めた。カルタゴはハンノという名の軍人を送り、反乱の金銭的援助を行ったが、同時にサルディニア遠征軍としてマゴに与えたのと同程度の軍を編成した。この遠征軍の指揮は「禿のハスドルバル」とマゴ(ハンニバルの弟とは別人)が執ることとなった。 カルタゴ遠征軍がサルディニアに出帆する前に、戦略的状況に変化があった。イタリアにいたハンノがルカニアでティベリウス・センプロニウス・ロングスに敗れ、イベリアにおいてもハスドルバル・バルカがデルトサの戦いに敗れて野戦兵力をほとんど失ってしまったのである。カルタゴ元老院はマゴにイベリアに行くように命じたが、サルディニア遠征軍は計画通り出帆した。しかし、嵐のために艦隊はバレアレス諸島に流されてしまい、損傷した多数の艦艇を浜に引き上げて修理することが必要となった(Livxxiii 36, Lazenby J.F p96-98)。このためにカルタゴ軍のサルディニア到着は遅れた。
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戦略的状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 13:52 UTC 版)
「アゲル・ファレルヌスの戦い」の記事における「戦略的状況」の解説
トラシメヌス湖畔の戦いで執政官ガイウス・フラミニウス率いるローマ軍2個軍団は壊滅し、カルタゴのローマ侵攻を阻止すべきローマ軍は消滅した。もう1人の執政官であるグナエウス・セルウィリウス・ゲミヌスが率いる2個軍団はアペニン山脈の逆側、アリミヌム(現在のリミニ)付近にいたため、ハンニバルの南進阻止は不可能であった。また、この軍団は、トラシメヌス湖畔の戦い直後にハンニバル隷下の騎兵指揮官であるマハルバルにアッシシウム(現在のアッシジ)付近で待ち伏せ攻撃を受け、騎兵4,000が撃破されていたために、偵察能力を殆ど失っていた。ゲミヌスはアリミヌムに撤退し、ポー平原におけるガリア人の襲撃に対応するのが精一杯であった。この時点での主導権はハンニバル側にあり、ローマ側は新たな軍団の編成が完了するまでイタリア半島内の同盟都市の防衛能力を失っていた。
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戦略的状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 13:53 UTC 版)
アゲル・フレルヌスの戦いに勝利してファビウスの罠から逃れたハンニバルは、その軍と戦利品と共に、モリーゼに向かって東進した。ファビウスは持久戦略を続け、会戦が生じないように高地を選んで注意深くカルタゴ軍を追尾していた。 カルタゴ海軍は紀元前218年の開戦以来、ローマの沿岸を襲撃していた。ローマ海軍は毎年アフリカ沿岸を襲っていた。 イベリア半島のハスドルバル・バルカは紀元前217年のエブロ川河口の海戦での敗戦以来、ローマ占領地に対する遠征軍を送っていなかった。イベリア半島におけるローマ軍指揮官のグナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウスに、弟のプブリウス・コルネリウス・スキピオが8,000の兵力を引き連れて合流し、ローマ軍の兵力は歩兵30,000と騎兵3,000に増強された。兄弟は執政官(コンスル)の任期が終わった後も前執政官(プロコンスル)として軍を率い続けていた。スキピオ兄弟は、イベリア人部族の部族長であるアベロクス(en)の反乱に乗じて、サグントゥム(現在のサグント)でカルタゴ軍に捕らわれていた人質を取り戻すことができた。これによりイベリア半島のカルタゴ勢力は弱体化し、逆にローマのそれは強化された。スキピオ兄弟はカルタゴ領イベリアに大規模な攻撃をかけることはなく、エブロ川以北におけるローマ勢力の強化に努めていた。
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