泰緬鉄道建設
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1943年4月、F隊の本部があったタイのニーケ(Neekey)に配属され、捕虜との連絡将校・通訳を務める。その後、捕虜の待遇改善を訴えて頻繁にニーケの馬来俘虜収容所第4分所長・坂野博暉中佐に抗議していたため、疎まれてS.W.ハリス中佐、ディラン中佐らとともにソンクライの第2収容所へ異動。 1943年12月、同年10月に泰緬鉄道が完成したため、F隊の生存者とともにチャンギーに戻る。以後終戦までをチャンギーで過ごす。
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泰緬鉄道建設
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詳細は「泰緬鉄道建設捕虜虐待事件」を参照 日本の戦争犯罪と認定された泰緬鉄道建設捕虜虐待事件では、タイ・ビルマ間における泰緬鉄道建設のためインドネシア・ビルマ・タイ・シンガポール・マレーシアなどから合計20万人以上のロームシャと連合国軍の戦争捕虜約6万人が動員され、そのうち約1万5000人が犠牲となった。建設従事者の居住地別の比率としては、イギリス領マラヤの住民が多かった 1943年始めに泰緬鉄道のために国外から送られたロームシャは日本の南方鉄道連隊によって管理されたが、衛生状態は悪く医師もつけられず、コレラの感染や栄養失調などが放置され急速に多数の死者が出たという。この状況を受けて1943年半ばに日本軍上層部が介入し病院が建てられたが、死亡率はなかなか低下しなかった。
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