たいはん 【泰範】
泰範
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泰範(たいはん、宝亀9年(778年)?[1] - 没年不詳[2])は、平安時代前期の真言宗の僧。空海の十大弟子、また四哲の一人とされる。出自については不明であるが、近江高島の人と言われる。
- ^ この生年は、承和4年(837年)4月5日付僧綱牒(続々群書類従本『東宝記』第七)に「年六十」とあることから逆算され、従来通説となっていたが、武内孝善「泰範の生年をめぐって―承和四年四月五日付僧綱牒の信憑性」(『高野山大学論叢』37、2002年)によって信憑性を否定されている。
- ^ 武内氏前掲論文は、承和3年の時点ですでに死去していたと推定している。
- ^ ここまで最澄と泰範の関係については、『伝教大師消息』による。
- ^ 『高野雑筆集』所収の書簡。『性霊集』巻十の「為泰範答叡山澄和尚啓書」と同じ。
- ^ 『高野雑筆集』所収の書簡による。空海が勅許後初めて高野山に入ったのは弘仁9年冬。
- ^ 注1参照。
- ^ なお、泰範の消息が明らかでないため、後世、泰範が最澄の死後比叡山に戻り、名を光定と改めたとして、最澄の弟子光定を泰範と同一視する誤伝を生じたが、天保13年(1842年)刊の道猷『弘法大師弟子譜』において明確に否定された。
- 1 泰範とは
- 2 泰範の概要
泰範
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最澄の高弟。入唐直前の時期に最澄と知り合い、奈良の守旧派仏教に対して同様の不満を持つことから意気投合し、新仏教を求める同志として相契った。最澄も泰範の英才をいたく気に入り、さらに思想上の盟友というだけでなく僧坊によくある同性愛的な感情を互いに抱いていた。
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