九州探題の解任と晩年
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応永2年(1395年)7月、了俊に上京の命が下り、同年8月に上京した。ところが、上京した了俊は九州探題を罷免されてしまい、後任の九州探題として渋川満頼が任命された。了俊は九州探題を罷免された後、遠江と駿河の半国守護を命じられ、それぞれ弟の仲秋、甥の今川泰範と分割統治する事となった。 後任の探題職を望んでいた大内義弘は大友氏や了俊に対して連合を持ちかけるが、了俊はこれを拒絶し、守護職として駿河の統治に専心した。応永6年(1399年)には義弘が堺で挙兵し、応永の乱が起こっている。甥の泰範は、了俊が自ら所望して守護職を得たものと勘違いして恨みを抱いており、了俊が大内と通じていると義満に讒言し了俊と仲秋の守護職を奪い取った。失意の了俊は鎌倉公方足利満兼に乱に呼応するように呼びかけたとされ、義満によって乱の関与を疑われた。応永の乱平定後の翌応永7年(1400年)には関東管領上杉憲定に対して了俊追討令が出された。しかし、了俊は憲定や守護職を奪った泰範の嘆願や弁明、今川一族の助命嘆願の結果許され、応永9年(1402年)には上洛し、政界に関与しないことを条件に赦免された。 晩年は『難太平記』の執筆など著作活動を行なった。享年に関しては諸説あり87歳から96歳で没した。なお『今川家譜』などには応永27年(1420年)8月(『寛政重修諸家譜』では同年8月28日)に96歳で没したとあるが、正徹の紀行『なぐさめ草』には応永25年(1418年)の時点で既に了俊が物故していたことが記されている。墓所は静岡県袋井市の海蔵寺に所在する。
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