九州探題の解任と晩年とは? わかりやすく解説

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九州探題の解任と晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 03:01 UTC 版)

今川貞世」の記事における「九州探題の解任と晩年」の解説

応永2年1395年7月、了俊に上京の命が下り同年8月上京した。ところが、上京した了俊は九州探題罷免されてしまい、後任九州探題として渋川満頼任命された。了俊は九州探題罷免された後、遠江駿河半国守護命じられそれぞれ弟の仲秋、甥の今川泰範分割統治する事となった。 後任探題職を望んでいた大内義弘大友氏や了俊に対して連合持ちかけるが、了俊はこれを拒絶し守護職として駿河統治専心した応永6年1399年)には義弘が堺で挙兵し応永の乱起こっている。甥の泰範は、了俊が自ら所望して守護職得たものと勘違いして恨み抱いており、了俊が大内通じていると義満讒言し了俊と仲秋守護職奪い取った失意の了俊は鎌倉公方足利満兼に乱に呼応するように呼びかけたとされ、義満によって乱の関与疑われた。応永の乱平定後の翌応永7年1400年)には関東管領上杉憲定に対して了俊追討令が出された。しかし、了俊は憲定や守護職奪った泰範嘆願弁明今川一族助命嘆願結果許され応永9年1402年)には上洛し、政界関与しないことを条件赦免された。 晩年は『難太平記』の執筆など著作活動行なった享年に関して諸説あり87歳から96歳で没した。なお『今川家譜』などには応永27年1420年8月(『寛政重修諸家譜』では同年8月28日)に96歳で没したとあるが、正徹紀行なぐさめ草』には応永25年1418年)の時点で既に了俊が物故していたことが記されている。墓所静岡県袋井市海蔵寺所在する

※この「九州探題の解任と晩年」の解説は、「今川貞世」の解説の一部です。
「九州探題の解任と晩年」を含む「今川貞世」の記事については、「今川貞世」の概要を参照ください。

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