九州平定と小田原征伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 15:39 UTC 版)
天正15年(1587年)の九州平定にも参陣し、秀政は先鋒部隊を任される。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。 天正18年(1590年)の小田原征伐にも参陣、左備の大将を命ぜられる。箱根口を攻め上り、山中城を陥落。小田原早川口まで攻め込み、海蔵寺に本陣を布いた。しかし5月下旬に疫病を患い、5月27日に陣中にて急死した。享年38。 秀政の遺体は本陣としていた小田原の海蔵寺に一旦葬られたが、髷だけは領内に持ち帰られ、越前国北之庄の居館近くの長慶寺に墓が建てられた。長慶寺に位牌と墓所のひとつが伝わり、同寺では毎年5月27日に供養祭が行なわれている。 また、家督を継いだ長男の秀治が慶長3年(1598年)4月に越後国春日山に転封となった際には、春日山城の山麓にある林泉寺に改葬される。林泉寺には秀政だけでなく父・秀重と長男・秀治の墓も建てられ、堀家3代の菩提寺となった。
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