九州平定と南九州の国分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 07:15 UTC 版)
詳細は「九州平定」を参照 天正14年(1586年)6月、島津氏は、島津氏に示された上記の国分案を拒否し、筑後・筑前にまで侵攻した。九州攻めのはじまりである。秀吉は「九州停戦令」に違反したとして、諸大名に島津氏の「征伐」を命令して中国地方・四国地方の大名を派遣したが、島津はこれらとも戦い、かえって豊後国をも占領した。 天正15年3月1日(西暦1587年4月8日)、秀吉が大坂城を出発、「やせ城どもの事は風に木の葉の散るごとくなすべく候」(黒田孝高あて朱印状)として自らも九州に出陣した。秀吉の大軍に対し、島津氏は日向国高城(宮崎県木城町)を前線として抗戦したが、根白坂で一戦したのみで完敗を呈したため、5月8日には島津義久が剃髪して降伏した。 一方豊後の大友義鎮は、4月の島津勢の撤退ののち疲労を訴えるようになり、日向一国を隠居料にという秀吉の提案を固辞し、そののち隠居地の豊後国津久見(大分県津久見市)で5月6日に死去した(同じころ、肥前の大村純忠も死去している)。長宗我部元親にも大隅一国を与えるとされたが元親も固辞した。 義久の弟島津歳久、同じく日向飯野城の城主島津義弘、家臣の新納忠元らは義久降伏後も抵抗を続けたが、豊臣方の石田三成と島津側の伊集院忠棟の間で調停が進み、義久の働きかけもあって講和が成立した。 5月25日(新暦6月30日)、秀吉は臣従した義久を「一命を捨てて走り入ってきたので赦免する」 として、義久には薩摩国を、義弘に対しては大隅国を安堵し、義弘の子島津久保に対しては日向国諸県郡のうち真幸院をあたえた。また、5月30日には佐々成政に肥後国一国を与えた。肥後の国人衆は、旧領安堵された上で成政の家臣団に編入することとした。
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