九州攻め以前の九州国分計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 07:15 UTC 版)
「九州国分」の記事における「九州攻め以前の九州国分計画」の解説
天正13年(1585年)、四国攻めの結果、豊臣政権は毛利氏の小早川隆景を独立大名として伊予に封じた。また、島津氏が勢力を拡大し、九州平定を目前に控えており、孤立した劣勢の大友氏は豊臣氏を頼る形勢であった。 天正13年(1585年)10月2日、豊臣秀吉は大友・島津両氏に九州停戦令を発した。大友氏は停戦令をすぐに受諾したのに対し、島津氏は激論の末受諾を決定するとともに、鎌田政近を秀吉のもとへ派遣して、戦争は大友氏に対する防戦であると弁明させた。天正14年(1586年)3月7日、鎌田政近は大坂城において秀吉から肥後半国・豊前半国・筑後を大友へ返還し、肥前を毛利氏に与え、筑前は秀吉の所領とする国分案を提示された。これは島津氏が本領とする薩摩・大隅・日向半国に加え肥後半国・豊前半国を安堵する宥和的な処置であったが島津氏はこれに反発した。4月5日には救援を求めるため大坂城で秀吉に面会した大友義鎮(宗麟)も国分案を提示されているが、内容の詳細は伝わっていない。また、6月25日頃に比定される秀吉朱印状では毛利輝元宛で九州国分案が提示されており、それは、秀吉が毛利所領から備中・伯耆の一部と備後・伊予を召し上げ、代わって九州の豊前・筑前・筑後・肥後の4カ国を与えた上で九州取次に任命する内容となっている。
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