最澄の孤立とは? わかりやすく解説

最澄の孤立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 03:37 UTC 版)

三一権実諍論」の記事における「最澄の孤立」の解説

最澄入唐求法から帰国する直前越州寄り密教龍興寺順暁密教法灯においては傍流属する。生没年不明)に学び灌頂受けている。帰国後も最澄密教への関心高く自身より年少で僧としての地位も低いながら正統的な密教学んで帰国した空海師事することになる。 最澄同じく804年遣唐使入唐した空海は、真言八祖一人恵果746年 - 806年)から正統的な密教学び大量経典法具携え最澄よりやや遅れて大同元年806年)に帰国していた。最澄空海招来した仏典借り受けて密教本格的に学びはじめ、弘仁3年812年)には弟子泰範778年 - ?)らとともに空海高雄山寺において灌頂を受け、正式に空海弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教奥義を学ばせようとしていた。 しかし、弘仁4年813年最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用空海申し出たところ、空海密教真髄文章修行ではなく修法実践合わせて行ってこそ得られるとして拒絶した。さらに最愛弟子であった泰範が、最澄再三求めにもかかわらず比叡山へ帰還拒み空海の下での修行望んだことなどが重なり両者義絶する至った。『理趣釈経』は、後期密教的な要素を含む『理趣経』を細かく解説し、さらに『理趣経』を用い修法曼陀羅描き方なども書かれていたため、空海書写のみでの伝授拒んだのは、故あることであったようである。 天台宗密教要素取り入れ新たな宗派としての地位高めようとしていた最澄にとって、泰範空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的な姿勢駆り立てられたともいわれる。なお天台宗最澄死後本格的に密教化することになる(→台密)。

※この「最澄の孤立」の解説は、「三一権実諍論」の解説の一部です。
「最澄の孤立」を含む「三一権実諍論」の記事については、「三一権実諍論」の概要を参照ください。

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