入唐求法とは? わかりやすく解説

入唐求法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 06:10 UTC 版)

最澄」の記事における「入唐求法」の解説

叡山大師伝によれば桓武天皇の詔問を受けた弘世は最澄相談し、唐の天台山への還学生留学生各1名を派遣必要性訴え上表文を記す。 (前略天台独り論宗斥けて特に経宗に立つ。論は此れ経の末、経は此れ論の本なり。(中略伏して願わくは我が聖皇の御代円宗の妙義を唐朝に学ばしめ、法華の宝車を日本に運らしめん。(後略) — 和気弘世、『上表文論宗とは『中論』に基づく三論宗と『成唯識論』に基づく法相宗指し天台宗釈尊説いた経に基づく経宗であると主張している。この上表により円基と妙澄の唐への派遣決まったものの、9月12日になると天皇最澄本人入唐するよう勅した。翌日最澄は「天朝の命に答えん」と返答し還学生となり、さらに10月20日義真訳語僧として同行することを願い出て許されている。この際入唐費用として金銀数百両が与えられたが、遣唐大使200両、副使150であった事と比べ非常に大きなであったことが分かる延暦23年804年7月6日最澄遣唐使肥前国松浦郡田浦から出港最澄乗船した第2船は9月1日明州鄮県到着した。病にかかっていた最澄はしばらく休養し9月15日天台山出発し9月26日台州到着する刺史の陸淳に面会した最澄は、講演会訪れていた天台山修禅寺道邃紹介される。『叡山大師伝によれば道邃最澄求めに応じて写経の手筈を整えた貞元20年延暦23年804年10月には最澄天台山登る。『伝法偈』によれば10月7日に仏隴寺で行満に出会い経典82巻と印信弟子授かる書状)を授かる同年12月7日沙弥であった義真天台山国清寺にて翰を戒師として具足戒を受ける。翌貞元21年延暦24年805年3月2日最澄義真道邃から菩薩戒を受けるが、これが最澄天台法華教旨による大乗戒との出会いとなった天台山における求法成果は『伝教大師将来台州録』によれば書物120345巻に及んだ。またこの明州滞在の間に禅林寺牛頭禅、国清寺密教学んだほか、国清寺一堂建立している。 同年3月上旬最澄一行明州に戻る。同年1月に崩じた徳宗一件日本伝え為に遣唐使帰国決まったためと思われる遣唐使船が順風を待つ間に最澄越州龍興寺目指す。『叡山大師伝によればこの越州行きは「真言求めるため」とするが、『顕戒論』には「明州刺史勧めによって」と記されている。4月8日頃に明州出発して4月18日には峯山道場順暁から灌頂を受けるという慌ただしい日程であった。『内証仏法相承血脈譜』や『顕戒論によれば、この灌頂金剛界胎蔵界両部であった記されている。また『伝教大師将来越州録』によれば、これにより書物102115巻と密教供養道具5点入手したとされるこの後5月5日までに明州へ再び戻った最澄は、開元寺法華院の霊光などから密教儀軌を得るなどし、5月18日明州から帰国の途に立った

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入唐求法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 15:41 UTC 版)

空海」の記事における「入唐求法」の解説

延暦23年803年)、中国語能力の高さや医薬知識面での推薦活かし遣唐使長期留学僧として唐に渡る。第18遣唐使一行には、この時期すでに天皇護持僧である内供奉十禅師一人任命されて、当時仏教界に確固たる地位築いていた最澄もいたが、空海はまった無名の沙門だった。同年5月12日難波津出航博多経由し7月6日肥前国松浦郡田浦五島市三井楽町 から入唐の途についた空海や彼と同様に乗船していた貴族橘逸勢遣唐大使の第1船で、最澄は第2船に乗船していた。第3船と第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみであった空海乗った船は、途中で嵐にあい大きく航路逸れて貞元20年804年8月10日福州長渓県赤岸鎮に漂着海賊嫌疑かけられ疑い晴れるまで約50日間待機させられる。このとき遣唐大使代わり空海福州長官嘆願書代筆している。また、空海個人での長安入京留学嘆願書「啓」を提出し、「20年留学予定」であると記述している。その理路整然とした文章優れた筆跡により遣唐使認められ同年11月3日長安入り許され12月23日長安入った永貞元年805年2月西明寺入り滞在し空海長安での住居となった長安空海師事したのは、まず醴泉寺の印度般若三蔵密教を学ぶために必須の梵語磨きをかけた。空海般若三蔵から梵語経本新訳経典与えられる5月になると空海は、密教第七祖である唐長安青龍寺恵果和尚訪ね以降半年わたって師事することになる。恵果空海過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて即座に密教奥義伝授開始し空海6月13日大悲胎蔵の学法灌頂7月金剛界灌頂を受ける。 8月10日には伝法阿闍梨位灌頂を受け、「この世一切遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世空海尊崇するご宝号として唱えられるうになる。このとき空海は、青龍寺不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々招いて食事接待をし、感謝の気持ち表している。 8月中旬以降には、大勢の人たちが関わって曼荼羅密教法具の製作、経典書写が行われ、恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。伝法印信である。阿闍梨付嘱物とは、金剛智 - 不空金剛 - 恵果伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像など8点恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟供養具など5点の計13点である。対して空海伝法への感謝込め恵果和尚袈裟柄香炉献上している。 同年12月15日恵果和尚60歳入寂元和元年806年1月17日空海は全弟子代表して和尚顕彰する碑文起草した。そして、3月長安出発し4月には越州到り4か月滞在した。ここでも土木技術薬学をはじめ多分野学び経典などを収集した折しも遭難した第4船に乗船していて生還しその後急に任命されて唐に再渡海していた遣唐使判官高階遠成通じ上奏して、「20年留学予定短縮し2年留学滞在費がなくなったこと」を理由唐朝許可得て その帰国便乗する形で、8月明州出航して帰国の途についた途中暴風雨遭遇し五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教開いたため、後に大宝寺西の高野山と呼ばれるようになった福江の地に本尊虚空蔵菩薩安置されていると知った空海参籠し、満願の朝には明星の奇光と瑞兆拝し異国修行し真言密教日本鎮護効果もたらす証しであると信じ、寺の名を明星院名づけたという。

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