入唐求法
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『叡山大師伝』によれば、桓武天皇の詔問を受けた弘世は最澄に相談し、唐の天台山への還学生と留学生各1名を派遣の必要性を訴える上表文を記す。 (前略)天台独り、論宗を斥けて特に経宗に立つ。論は此れ経の末、経は此れ論の本なり。(中略)伏して願わくは我が聖皇の御代に円宗の妙義を唐朝に学ばしめ、法華の宝車を日本に運らしめん。(後略) — 和気弘世、『上表文』 論宗とは『中論』に基づく三論宗と『成唯識論』に基づく法相宗を指し、天台宗は釈尊の説いた経に基づく経宗であると主張している。この上表により円基と妙澄の唐への派遣が決まったものの、9月12日になると天皇は最澄本人が入唐するよう勅した。翌日最澄は「天朝の命に答えん」と返答し還学生となり、さらに10月20日に義真を訳語僧として同行することを願い出て許されている。この際に入唐費用として金銀数百両が与えられたが、遣唐大使が200両、副使が150両であった事と比べ非常に大きな額であったことが分かる。 延暦23年(804年)7月6日に最澄ら遣唐使は肥前国松浦郡田浦から出港。最澄が乗船した第2船は9月1日に明州鄮県に到着した。病にかかっていた最澄はしばらく休養し、9月15日に天台山へ出発し、9月26日に台州に到着する。刺史の陸淳に面会した最澄は、講演会に訪れていた天台山修禅寺の道邃を紹介される。『叡山大師伝』によれば、道邃は最澄の求めに応じて写経の手筈を整えた。貞元20年(延暦23年・804年)10月には最澄は天台山に登る。『伝法偈』によれば10月7日に仏隴寺で行満に出会い、経典82巻と印信(弟子が授かる書状)を授かる。同年12月7日に沙弥であった義真は天台山国清寺にて翰を戒師として具足戒を受ける。翌貞元21年(延暦24年・805年)3月2日に最澄と義真は道邃から菩薩戒を受けるが、これが最澄と天台法華の教旨による大乗戒との出会いとなった。天台山における求法の成果は『伝教大師将来台州録』によれば書物120部345巻に及んだ。またこの明州滞在の間に禅林寺で牛頭禅、国清寺で密教を学んだほか、国清寺に一堂を建立している。 同年3月上旬、最澄一行は明州に戻る。同年1月に崩じた徳宗の一件を日本に伝える為に遣唐使の帰国が決まったためと思われる。遣唐使船が順風を待つ間に最澄は越州の龍興寺を目指す。『叡山大師伝』によればこの越州行きは「真言を求めるため」とするが、『顕戒論』には「明州の刺史の勧めによって」と記されている。4月8日頃に明州を出発して4月18日には峯山道場で順暁から灌頂を受けるという慌ただしい日程であった。『内証仏法相承血脈譜』や『顕戒論』によれば、この灌頂は金剛界・胎蔵界両部であったと記されている。また『伝教大師将来越州録』によれば、これにより書物102部115巻と密教供養道具5点を入手したとされる。この後の5月5日までに明州へ再び戻った最澄は、開元寺法華院の霊光などから密教儀軌を得るなどし、5月18日に明州から帰国の途に立った。
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入唐求法
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延暦23年(803年)、中国語の能力の高さや医薬の知識面での推薦も活かし、遣唐使の長期留学僧として唐に渡る。第18次遣唐使一行には、この時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されて、当時の仏教界に確固たる地位を築いていた最澄もいたが、空海はまったく無名の一沙門だった。同年5月12日、難波津を出航、博多を経由し7月6日、肥前国松浦郡田浦、五島市三井楽町 から入唐の途についた。 空海や彼と同様に乗船していた貴族の橘逸勢は遣唐大使の第1船で、最澄は第2船に乗船していた。第3船と第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみであった。 空海の乗った船は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて貞元20年(804年)8月10日、福州長渓県赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる。このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆している。また、空海個人での長安入京留学の嘆願書「啓」を提出し、「20年留学予定」であると記述している。その理路整然とした文章と優れた筆跡により遣唐使と認められ、同年11月3日に長安入りを許され、12月23日に長安に入った。 永貞元年(805年)2月、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった。長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけた。空海は般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられる。 5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し、空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。 8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。 8月中旬以降には、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われ、恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。伝法の印信である。阿闍梨付嘱物とは、金剛智 - 不空金剛 - 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟や供養具など5点の計13点である。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している。 同年12月15日、恵果和尚が60歳で入寂。元和元年(806年)1月17日、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。そして、3月に長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在した。ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集した。折しも遭難した第4船に乗船していて生還し、その後急に任命されて唐に再渡海していた遣唐使判官の高階遠成を通じ上奏して、「20年の留学予定を短縮し2年で留学の滞在費がなくなったこと」を理由に唐朝の許可を得て その帰国に便乗する形で、8月に明州を出航して、帰国の途についた。途中、暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開いたため、後に大宝寺は西の高野山と呼ばれるようになった。福江の地に本尊・虚空蔵菩薩が安置されていると知った空海が参籠し、満願の朝には明星の奇光と瑞兆を拝し、異国で修行し真言密教が日本の鎮護に効果をもたらす証しであると信じ、寺の名を明星院と名づけたという。
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