最盛と衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/17 15:06 UTC 版)
当時の株数は1995株、軒数で1271軒、これが65組に分かれるようになった。株数が定まると、新規加入者は明株(あきかぶ)を引き受けるほかなかった。無株の者が荷主と取引すると、問屋から訴えて、その営業を停止させた。 三橋会所の買付金の中に、幕府から冥加金を貸し下げることは、文化6年8月に初めての冥加金を納めたとき、3箇年間据え置き、4箇年目返還の条件でその半額を貸し下げ、同年10月に残りの半額貸し下げた。 ただし、翌文化7年および、それ以降の貸し下げ回数や期日は明らかでない。 三橋架け替え修繕の褒美として、室町3丁目に町屋敷を下されたため、その地代は会所の収入であったと考えられる。三橋会所の資金は、幕府の貸し下げ金と三橋手当積立金および差加金の3口で、文化8年におよそ70000両であった。 会所では事務をとらず、寄合を口実に、坂本町の料理茶屋・伊勢屋太兵衛方へ赴き、酒食をすることとした。その1ヶ月の支払いは30両から100両ほどで、同店では、十組以外の客を断ったほどであった。 やがて、茂十郎の上納金使い込みや、室町拝領屋敷取計方の不正が暴露され、文政2年6月に三橋会所は廃止される。茂十郎は、町方御用達および十組頭取を取り放たれた。 以後、三橋の経費は町年寄の手で冥加金から支出した。しかし、天保の改革で十組問屋は解散を命じられ、冥加金上納は中止された。 それ以後は、町方付属地助成地の地代で、三橋の修繕を行った。毎年、金724両の予定額であったが、これは修繕費である。架け替え費は、町会所の積金から支出することになり、明治時代に至った。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
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