最澄による密教伝来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/02 10:59 UTC 版)
最澄(伝教大師)は唐から帰国して朝廷からの信任を得るも、その翌年に真言密教のすべてを修めた空海が帰国し、すぐに朝廷から信任を受け活躍すると、最澄は自身が学んできた密教は一部の傍系のものでしかないことに気づき、空海に礼を尽くし自らの弟子共々、高雄山神護寺において空海の弟子となった。しかし最澄は弟子をして空海に借経を繰り返し、「理趣釈経(理趣経の解説本)」を借りようとしたところ、ついに空海から拒絶され、また最澄の一番弟子である泰範など諸弟子たちが空海の元へ行って比叡山へ帰らなかったことなど、さまざまな理由から最澄と空海の交流が断たれた。これにより最澄が目指していた法華経を中心とする戒律や禅、念仏、そして密教を融合させた総合仏教といわれる日本独特の天台宗の教学確立はそこで中断せざるを得なくなった。
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