泰緬鉄道建設F隊とワイルド
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「シリル・ワイルド」の記事における「泰緬鉄道建設F隊とワイルド」の解説
泰緬鉄道建設のための連合軍捕虜の派遣は、1942年5月14日濠軍A.L.ヴァーリ准将が率いるA隊3,000人のモウルメイン派遣に始まり、1942年10月から1943年3月までに、35,000人以上がチャンギーや他の収容所から建設現場に派遣されていた。1943年春には連合国がインド洋の制海権を掌握しつつあり、海上補給路の維持が困難になってきたため、泰緬鉄道の建設が急がれることになった。 1943年初、馬来俘虜収容所所長の有村恒道中将は、タイに派遣する捕虜7,000人を選ぶよう、チャンギーの捕虜の統率者に要請した。既に健康な者は派遣済みで、栄養不良により捕虜は皆弱っていたため、適当な者はいないと回答すると、有村中将は、移動先はシンガポールよりも食糧事情が良く、療養のためにも良いから移動するので、健康不良者に作業や行軍はさせない、日用品や機器類を携行してよい、食堂や病院、医療品も用意する等の条件を提示したため、約2,000人の健康不良者も含む捕虜7,000人のF隊が編成され、列車でシンガポールを出発した。 F隊に同行したワイルドは、実際にはタイのバンポン(英語版)から先には移動手段もなく、携行品を放棄して300キロを徒歩で移動しなければならなかったこと、満足な食事も落伍者を受け入れる医療施設もなく、日本軍の下士官が捕虜に行軍させるために捕虜の健康状態を考慮せず、また抗議も無視して暴力を振るっていたことなどを記録していた。目的地となっていたタイとビルマの国境に近いジャングルに到着すると、捕虜収容所の建物は未完成で屋根がない状態だった。捕虜は健康状態に関わりなく材木の運搬、杭打ちなどの建設作業に従事させられ、過酷な作業のほかにケガやマラリヤ・赤痢などの感染症、日本軍の暴力に脅かされ続ける毎日だった。 1943年7月、ソンクライの第2収容所からM.T.L.ウィルキンソン中佐ら10余人が脱走する事件があり、8月下旬にビルマの村に辿り着いた4人が逮捕され、各地の収容所を引き回された上でF隊司令部のあるニーケへ連れ戻され、処刑されることになった。このとき処刑の立会いのためニーケに出向くよう指示されたワイルドは、状況を察して坂野中佐に面会し、脱走者を処刑しないよう抗議した。 (…)彼(坂野)は、これらの将校は逃亡して部下を困難に陥れた、といった。わたし(ワイルド)は、それは逆だと答えた。日本軍こそ、将校が部下の面倒を見られないようにした。何百人もが死んでいくのを見るに忍びず、自らの命を賭けてインドまで脱走し、イギリス陸軍や外の世界に、日本軍がタイの鉄道において捕虜をどう扱っているのかを知らせようとしたのだ、といった。さらに坂野中佐にたいして、シンガポールを出るとき、帝国陸軍を信用せよ、何の心配もいらないといったではないか。しかし3ヶ月のちには、帝国陸軍を信頼した者のうち1,700人が死に、さらに何百人もが死にかけているではないか、と抗議した。ここで坂野中佐は、なんと涙を流しはじめた。(…) — シリル・ワイルド、1944年6月26日、日本軍第7方面軍本部のラッフルズ・カレッジ軍事法廷終了後の報告書の中で 坂野中佐は処刑を中止した。逮捕された4人は翌1944年6月の軍事法廷で「(逃走中に死亡した)ウィルキンソン中佐にそそのかされた」として有期刑となり、オートラム刑務所に数ヶ月収監された後、健康上の問題を理由に出所を許された。
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