泰親没後の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 16:56 UTC 版)
泰親は陰陽師としての実力によって晴明以来の名声を得て、その没後には季弘・業俊・泰茂によって安倍氏の陰陽道嫡流が継承され、泰茂の急死後はその弟・泰忠が養子となって地位を引き継ぐことになるが、泰親親子の活躍をもってしても晴道党や宗明流の台頭を完全には抑えることは出来なかった。泰忠は泰親の子の中で唯一陰陽頭(権天文博士)に至ったが、晩年に生まれた泰盛に家督を継がせることが出来ず、寛喜2年(1230年)に没するにあたって後室と泰盛の庇護を条件に3人の養子に遺領を分割した。ところが、養子の1人で後室と泰盛を庇護していた安倍泰俊(業俊の子)が、他の2名が遺命を守っていないことを理由に告発したために泰茂-泰忠系は分裂し、その間に陰陽頭は賀茂在俊、権天文博士は安倍国道(晴道党)に奪われてしまう。続いて、寛元5年(1247年)に季弘の孫・季尚の後継者問題を巡って殺人事件が発生して処分者を出し、季弘系も大打撃を蒙ってしまう。そのため、安倍氏嫡流は鎌倉時代を通じて分裂と衰退を続けることになる。安倍氏嫡流の再興が実現するのは、足利将軍家に信任された泰茂-泰忠系の安倍有世(泰盛の来孫)が登場する14世紀末期まで待つことになる。
※この「泰親没後の衰退」の解説は、「安倍泰親」の解説の一部です。
「泰親没後の衰退」を含む「安倍泰親」の記事については、「安倍泰親」の概要を参照ください。
- 泰親没後の衰退のページへのリンク