陰陽師として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 08:22 UTC 版)
1869年(明治2年)、養父・土御門晴雄が死去したことにともない、晴栄が土御門家の家督を継いだ。その翌年には天社禁止令により陰陽師の免許が禁止され、陰陽寮が廃止されることになったため、陰陽道を家業としていた土御門家にとっては苦難の時代が始まった。 陰陽寮が所管していた天文暦道は、大学校(東京帝国大学の前身)の下に設置された天文暦道局に移管されることになったが、その際に土御門家の当主として晴栄は新政府より天文暦道御用掛を命じられた。しかし天文暦道局の本局が東京に移転されることになったため、京都の土御門家はその出先機関のような扱いとなり、出張所が設置されることになった。その後天文暦道局が星学局に改組されるにあたり、京都星学局出張所は廃止されることになり、晴栄も大学御用掛を解任されて、ここに土御門家は編暦に関する権限をすべて失うことになった。
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