江川英龍との親交
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練兵館創立の資金援助をした人物が撃剣館同門の江川英龍である。その後弥九郎は江川に仕え、江川から軍事防衛の最新知識を吸収するようになった。 天保6年(1835年)、江川が伊豆国韮山の代官となると、江戸詰書役として仕えた。天保8年(1837年)、大坂で大塩平八郎の乱がおこると、江川の命により、大塩の行方を調べるため、大坂へ赴いた。江戸へ戻ると、その状況をいち早く水戸藩の藤田東湖に伝えた。また4月には江川とともに、刀剣商の装いで甲斐国の状況を見て回った(「甲州微行」と呼ばれる)。この時、わざわざ商人を装ったのは、当時甲斐国では博徒が多く、治安が悪かったためとされる。 天保9年(1838年)、老中・水野忠邦は江戸湾防衛強化のため備場見分を実施することとし、その正使に鳥居耀蔵を、副使に江川英龍を任命した。江川は測量の専門家の推薦を渡辺崋山に依頼するため、弥九郎にその仲介を頼んだ。弥九郎は翌年正月から実施された備場見分に江川の手代として参加している。 天保12年(1841年)5月、西洋砲術家である高島秋帆が徳丸ヶ原において演練を行うこととなり、弥九郎は弟の三九郎や他の江川の家臣とともに参加した。また同年8月、水戸藩の弘道館の開館式に他の剣豪などとともに招かれた。 嘉永6年(1853年)6月、浦賀に黒船が来航し、来春の再来航を告げて出航。幕府は急きょ江戸湾内の防備を固めるため、江川らに対策を命じた。江川は台場築造の場所を選定する必要性から、江戸湾岸を巡視、弥九郎や桂小五郎も同行している。また品川沖に台場の築造が計画されると、弥九郎はその実地測量や現場監督を行ったとされる。併せて、高島秋帆らとともに、湯島馬場で大砲鋳造を行っている。 安政元年(1854年)正月、黒船が江戸湾に再来航すると、幕府は江川に対して、江戸湾最奥部である品川沖まで黒船が侵入した場合に備え、船で乗り付けて退去交渉を行う役目を任じた。弥九郎は江川に従って退去交渉に同席するつもりだったという。2月15日、弥九郎らは、長州藩江戸藩邸に招かれ、藩士に対する剣術教授の功績を讃えられた。また4月3日には福井藩江戸藩邸へ70名余りの門人とともに赴き、邸内の馬場で試合と西洋銃陣を披露した。 安政2年(1855年)正月、江川英龍死去。後継の江川英敏からも引き続き助力を要請された。10月には安政の大地震で藤田東湖が水戸藩江戸藩邸内の自邸で圧死した。『斎藤弥九郎伝』によると、弥九郎は東湖の遺骸を引き出し、自家の長持に納めて水戸へ送り届けた、とある。
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