江川英龍との親交とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 江川英龍との親交の意味・解説 

江川英龍との親交

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 07:05 UTC 版)

斎藤弥九郎」の記事における「江川英龍との親交」の解説

練兵館創立資金援助をした人物撃剣同門江川英龍である。その後弥九郎江川仕え江川から軍事防衛最新知識吸収するようになった天保6年1835年)、江川伊豆国韮山代官となると江戸詰書役として仕えた天保8年1837年)、大坂大塩平八郎の乱がおこると、江川の命により、大塩行方調べるため、大坂赴いた江戸へ戻ると、その状況いち早く水戸藩藤田東湖伝えた。また4月には江川とともに刀剣商の装い甲斐国状況見て回った(「甲州微行」と呼ばれる)。この時、わざわざ商人装ったのは、当時甲斐国では博徒多く治安悪かったためとされる天保9年1838年)、老中水野忠邦江戸湾防衛強化のため備場見分実施することとし、その正使鳥居耀蔵を、副使江川英龍任命した江川測量専門家推薦渡辺崋山依頼するため、弥九郎にその仲介頼んだ弥九郎翌年正月から実施された備場見分江川の手代として参加している。 天保12年1841年5月西洋砲術家である高島秋帆徳丸ヶ原において演練を行うこととなり、弥九郎は弟の三九郎や他の江川家臣とともに参加した。また同年8月水戸藩弘道館開館式に他の剣豪などとともに招かれた。 嘉永6年1853年6月浦賀黒船来航し来春再来航を告げて出航幕府急きょ江戸湾内の防備固めるため、江川らに対策命じた江川台場築造の場所を選定する必要性から、江戸湾岸を巡視弥九郎桂小五郎同行している。また品川沖に台場築造計画されると、弥九郎その実測量現場監督行ったとされる併せて高島秋帆とともに湯島馬場大砲鋳造行っている。 安政元年1854年正月黒船江戸湾再来航すると、幕府江川に対して江戸湾最奥部である品川沖まで黒船侵入した場合備え、船で乗り付けて退去交渉を行う役目任じた弥九郎江川に従って退去交渉同席するつもりだったという。2月15日弥九郎らは、長州藩江戸藩邸招かれ藩士対す剣術教授功績を讃えられた。また4月3日には福井藩江戸藩邸70余り門人とともに赴き、邸内馬場試合西洋銃陣を披露した安政2年1855年正月江川英龍死去後継江川英敏からも引き続き助力要請された。10月には安政の大地震藤田東湖水戸藩江戸藩邸内の自邸圧死した。『斎藤弥九郎伝』によると、弥九郎東湖遺骸引き出し自家の長持納めて水戸送り届けた、とある。

※この「江川英龍との親交」の解説は、「斎藤弥九郎」の解説の一部です。
「江川英龍との親交」を含む「斎藤弥九郎」の記事については、「斎藤弥九郎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「江川英龍との親交」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「江川英龍との親交」の関連用語

江川英龍との親交のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



江川英龍との親交のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの斎藤弥九郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS