江州の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/17 14:48 UTC 版)
劉裕は尋陽方面に追討軍を派遣しておき、その後を自ら大軍を引き連れて進撃した。そして、盧循を雷池(安徽省望江県)で破った。盧循は退却して豫章に帰還しようと考え、全力を振り絞って左里(江西省都昌県西北)に柵を築いて官軍の進路を遮断した。必死の防戦にもかかわらず再び劉裕に破れ、盧循は船一艘だけで逃げ出した。それから1000名ほどの敗残兵をかき集めると、広州に戻って立てこもろうとした。 しかし劉裕はあらかじめ孫処を派遣し、海路から番禺城を占拠させておいたため、翌年(411年)広州にたどりついた盧循は立てこもることができなくなった。徐道覆は始興に立てこもり、険しい地勢を利用して守備を固めたが、その後まもなく官軍の攻撃を受けて敗死した。
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