フランスの計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 11:27 UTC 版)
1796年と1800年の戦役では、いずれもドナウ川周辺がフランス軍の戦闘の中心地になるとナポレオンが考えたにもかかわらず、イタリアが最も重要な舞台となった。宮廷評議会はナポレオンがイタリアを再び攻撃すると考えたが、ナポレオンには別の目的があった。210,000のフランス軍はブローニュの野営地から東に向かい、もしオーストリア軍がシュヴァルツヴァルトに向かって行軍を続けるなら、マック将軍のオーストリア軍を包囲するつもりだった。一方、ジョアシャン・ミュラはフランス軍が西から東へと直接行軍しているとオーストリア軍に思わせる囮となるため、部隊をシュヴァルツヴァルトを通り抜けさせた。ドイツでの主軍の攻撃は他の戦域でのフランスの攻撃によって援護される予定だった。アンドレ・マッセナはイタリアにて50,000名の兵を率いて、カール大公のイタリア軍と対峙しており、ローラン・グーヴィオン=サン=シールは20,000人の兵士と共にナポリに向かい、ギヨーム=マリ=アンヌ・ブリューヌはイギリスの侵攻に備えて、ブローニュを警備していた。 ミュラとアンリ・ガティアン・ベルトランはティロルとマイン川に参謀のアンヌ・ジャン・サヴァリ(英語版)を偵察として送り込み、ライン川とドナウ川の間の地域の詳細な道路の調査を作成した。大陸軍の左翼は北ドイツのハノーファーとオランダのユトレヒトの間からヴェルテンベルクへと向かっていった。右翼と中央はイギリス海峡沿岸からマンハイムやストラスブールなどのライン川中部の都市に沿って集中した。ミュラがシュヴァルツヴァルトが通れることを証明している間、フランスの軍の主力はドイツの中心部に侵攻し、南東に進みアウクスブルクを占領した。この動きはマック将軍を孤立させ、オーストリア軍との連絡網を断ち切る事を目的としていた。
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