フランスの西地中海制覇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/15 02:04 UTC 版)
「パレルモの海戦」の記事における「フランスの西地中海制覇」の解説
戦勝の報せがヴェルサイユ宮殿に届くと、ジャン=バティスト・コルベールは「これまでの海軍で最も素晴らしい戦闘だ」と驚嘆した。これほどまでの喜びの背景にはオランダ艦隊に対する畏怖がある。例えば、1672年時点ではオランダに宣戦布告するのにイングランド艦隊との同盟が必要だった。イングランドが1674年に戦争から脱落すると、オランダ艦隊はイギリス海峡の制海権を握り続け、ベル=イルを攻撃、ロシュフォールでフランス艦隊を辱めたりした。ロイテルの艦隊が1675年に地中海にやってきて、編成して間もないフランス艦隊に挑戦するのも、フランス艦隊が1672年から1673年の北海での戦役で精彩を欠き、1674年にほとんど活動していないことを考えると特に問題のない行動だった。スペインの海軍力は八十年戦争とフランス・スペイン戦争で揺らいでいたが、パレルモの海戦により完全に消滅した。 パレルモの海戦はアウグスタの海戦の勝利をさらに完璧なものにしたが、それは最後の勝利ではなかった。翌年にもエストレ伯爵(英語版)率いるフランス小艦隊がトバゴの海戦でヤコブ・ビンケス(英語版)率いるオランダ艦隊に挑み、1度目は敗れたが再戦で勝利した。イングランドではフランスの海軍大国化を受け入れられない脅威としてとらえていたため、フランス艦隊の勝利に不安を感じた。海戦での勝利と同時期にフランス陸軍がフランドル地方のヴァランシエンヌ包囲戦、カンブレー包囲戦、サントメールの戦い、カッセルの戦い、イーペル包囲戦と連勝したのでなおさらであった。これによりイングランドとオランダの和解が急速に進み、同盟条約を締結した(ただし仏蘭戦争への再参戦は1678年に講和条約であるナイメーヘンの和約が締結されたためなされなかった)。いずれにせよ、パレルモの海戦での勝利により、フランスはその後数十年間地中海西部の覇権を握った。イギリス海軍が地中海の覇権を握るのはスペイン継承戦争のジブラルタル占領、トゥーロン包囲戦、ミノルカ島占領を待たなければならなかった。
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