各国の戦略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 04:29 UTC 版)
18世紀の大半を通して、フランスの戦略は同じものであった。植民地での戦闘は負け戦とみなし、現地の住人に守らせるか最低限の増援や未熟な兵士しか送らずにいた。これはフランスの地理上の問題とイギリス海軍の優位があったため、フランス海軍が植民地に大量の補給と増援を送ることが難しい状態であり、ある程度は仕方ないことであった。また、長大な国境線をもつフランスにとって本土における強力な陸軍は欠かせないものであった。これらの原因により、フランス政府はヨーロッパにおける陸軍をその戦略の中心とした。フランスは陸軍の大半を大陸に留まらせ、本土近くで勝利を得ようとした。フランスの計画は終戦まで戦い、続いて講和交渉でヨーロッパの占領地を失った海外の植民地で交換する、というものであった。しかし、七年戦争では、植民地が失われ、ヨーロッパの陸戦も割と成功を収めたものの、終戦時の占領地は喪失した植民地と交換するには足らず、この手法は有効ではなかった。 イギリスは合理的かつ現実的な理由で大陸ヨーロッパへの大規模な派兵を避けようとした。イギリスはヨーロッパにおける不利をいわゆる「敵の敵」である大陸の国との同盟で補おうとした:15–16。大陸の同盟国軍に資金援助をすることで、ロンドンの経済力を軍事的優位に変換することができた。1756年の外交革命において、イギリスがオーストリアとの長年の同盟を破棄してプロイセンに乗り換えた。これにより七年戦争では、イギリスは当時最強の将軍であったプロイセンのフリードリヒ大王を巨額の援助金と引き換えにフランスと戦わせることができた:106。イギリスはフランスと対比して、戦争遂行の重点を植民地に置き、その海軍力を遺憾無く発揮した:64–66。イギリスは敵国の港への砲撃と海上封鎖、および海路で兵員を輸送する戦略を遂行し、敵国の海運を妨害しつつその植民地を攻撃、時には近くのイギリス植民地の入植者の力も借りた。 ロシアとオーストリアは隣の新しい脅威であるプロイセンの弱体化を図り、1756年にフランスとの防衛同盟を締結、フランスの援助のもと、オーストリアとロシアがプロイセンに攻撃することに同意した。
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