知事としての2期目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 21:27 UTC 版)
「アイザック・シェルビー」の記事における「知事としての2期目」の解説
1812年のケンタッキー州知事にはガブリエル・スローターが有力だった。スローターが候補となるために唯一つの障害があった。アメリカ合衆国、フランスおよびイギリスの間の緊張関係が募り、開戦になる恐れがあった。この見込が差し迫ってくると、シェルビーの名前が知事候補として巷に流れ始めた。シェルビーの近くに住んでいたスローターはシェルビーを尋ねて出馬するつもりがあるかを尋ねた。シェルビーはその指導力を必要とする国家的な非常事態が出てこない限り、そうするつもりはないと請け合った。この答えに満足したスローターはその選挙運動を始めた。 ヨーロッパ列強との関係が悪化し、1812年6月18日、アメリカ合衆国はイギリスに宣戦布告して、米英戦争が始まった。ケンタッキー州の最高執行官としてシェルビーに復帰させる要求が大きくなった。7月18日、選挙まで1ヶ月も無かったが、シェルビーは立候補に嫌々従い、出馬を宣言した。 選挙運動の間、シェルビーの政敵、中でもハンフリー・マーシャルは、ジュネ事件に関するジェファーソンの2回目の手紙に対するシェルビーの反応を批判し、アメリカ合衆国に対するその忠誠心に疑問を投げ掛けた。シェルビーはその手紙に要領を得ない反応をしたことは、西部の状況に連邦政府の注意を引くためだったと主張した。シェルビーはその策略が働いた証拠として、ワシントンとスペインの間に合意ができたことを挙げた。また、フランスの計画は失敗することになると当時にの手紙に書いていたとも主張した。 スローターの支持者達はシェルビーの老齢(62歳になろうとしていた)を嘲って、「オールド・ダディ・シェルビー」と呼んだ。あるケンタッキー州の新聞は、シェルビーがキングスマウンテンの戦いから逃亡 (run) したという匿名記事すら掲載した。シェルビーの敵ですらその話を信じる者は少なかったが、シェルビーの支持者とシェルビー自身は州内新聞に書状で反応した。ある支持者はこれらの反応を「シェルビー大佐がキングスマウンテンで逃亡したと報じられている。その通りだ。かれは先ず敵に向かって走った (run) 。...約47分間の行動の後に再び900名の捕虜と走った (run) 」と書くことで特徴付けた。 遊説が8月に入ると、シェルビーは勝利をより確信するようになり、州議事堂に戻る準備を始めた。1万票差の勝利を予測していたが、最終的には17,000票以上の差となった。シェルビーが就任したことで、ケンタッキー州知事としては初めて返り咲きで執務する者となった(第2代知事のジェイムズ・ゲアリドは、任期中に憲法が改訂されたので、特別立法による除外事項として1796年と1800年に2期続けて就任することを認められていた)。 戦争に向けた備えがシェルビー2期目の仕事を多く支配した。就任の2日前にシェルビーは退任するチャールズ・スコット知事と州議事堂で会って、ウィリアム・ハリソンをケンタッキー州民兵隊長に指名した。これは憲法でその地位がケンタッキー州生まれの者に限るとされていたことに違背していた。ハリソンは既にインディアナ州とイリノイ州の民兵隊長であり、ウェイン砦防衛に急行する前にケンタッキー州ニューポートでケンタッキー州の志願兵を引き取っていった。 シェルビーはジェームズ・モンロー大統領に働きかけて北西部の全ての軍隊をハリソンに指揮させるようにした。モンローは同意し、既にジェイムズ・ウィンチェスターを指名していたのを取り消した。州単位では、シェルビーが民兵法を改正し、18歳から45歳までの男性全てを軍務に就く資格あるものとした。牧師はこの規定から外された。7,000人の志願兵が入隊したが、それ以上の者が拒否した。シェルビーは州内の女性にケンタッキー州部隊のために縫製品や編み物を作るよう奨励した。 連邦政府の戦争遂行計画についてのシェルビーの信頼は多くのケンタッキー州人が戦死したフレンチタウンの戦いでの惨事によって揺り動かされた。シェルビーは機会が来れば自ら戦争遂行を助けると誓い、議会からもそうすることを認められた。1813年3月、ハリソンはケンタッキー州に1,200名の追加を養成し、メグス砦で落ち合うこととした。シェルビーは要請されただけの人員をグリーン・クレイ将軍に付けて派遣し、その中には長男のジェイムズが従っていた。この援軍がメグス砦に到着すると、砦はイギリス軍とインディアンの連合軍に包囲されていた。クレイの部隊は包囲を止めさせることができたが、多くの者がインディアンに捕まって虐殺された。初めに入った報告書ではジェイムズ・シェルビーが戦死した者の中に入っていたが、後に捕獲されたことが分かり、捕虜交換で返された。 1813年7月30日、ハリソン将軍が再度シェルビーに手紙を送り志願兵を養成してきたが、このときはシェルビーが自ら部隊を率いてくることを求めていた。シェルビーはハリソンが求めてきた数字の2倍にもなる、3,500名の志願兵隊を起ち上げた。後に知事になったジョン・J・クリッテンデンがシェルビーの副官になった。シェルビーはこのとき少将になって、ハリソンの部隊に合流し、このときの作戦はテムズの戦いにおけるアメリカ軍の勝利で頂点に達した。 ハリソンが陸軍長官ジョン・アームストロング・ジュニアに宛てたこの戦闘の報告書で、シェルビーについて「私はシェルビー知事(の功績)についてどのように表現していいか分からない。私の賛辞では彼の功績に届かないと確信している」と告げた。1817年、シェルビーは連邦議会の感謝状を受け取り、戦争中の功績に対して議会の金メダルを与えられた。シェルビーの友人達はアメリカ合衆国副大統領に立候補するよう勧めたが、シェルビーは即座にかつきっぱりと辞退した。
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