知事としての1期目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 21:37 UTC 版)
「ジェイムズ・マクリアリー」の記事における「知事としての1期目」の解説
1875年、マクリアリーは民主党の知事公認候補4人の1人となった。4人とも元南軍の軍人だった。他の3人はジョン・スチュアート・ウィリアムズ、J・ストッダード・ジョンソン、ジョージ・B・ホッジだった。民主党の指名大会が始まったときにはウィリアムズが有力候補と見なされていたが、州西部の新聞からその性格が攻撃されていた。党大会では4回目の投票でマクリアリーがウィリアムズを下した。 共和党は北軍に従軍したジョン・マーシャル・ハーランを指名した。州内で行われた合同討論会で、マクリアリーは、レコンストラクション時代に共和党員のユリシーズ・グラント大統領が権力を乱用したと、多くのケンタッキー州民が感じていることを強調した。ハーランは、州内の民主党の政治家が戦後の10年間も戦争の問題に関わり続けていると責めることで反論した。また民主党の無駄遣いと考えるものを攻撃し、現職知事プレストン・レスリーが恩赦を出し過ぎているとも攻撃した。ハーランはこれらのことを民主党に広がった腐敗の証拠だと主張した。マクリアリーは、ほとんど全てが民主党の支持者である州内の新聞から確固とした支持を得ていた。対抗陣営から選挙戦後半に現金が飛び、また遊説者が投入されたが、マクリアリーは選挙で130,026票対94,236票という結果で当選した。 マクリアリーが州知事に当選したとき、妻のケイトはケンタッキー州の歴史で最年少のファーストレディになった。マクリアリーの就任時までに州会議事堂の分館がほぼ完成しており、旧知事公舎から公式知事執務室を移すことができた。このことで家族の私的な領域に公務が入ってこないようにできた。公舎の執務室で現職レスリー知事から行政日誌と公印を受け取ったのが、その場所で知事が行った最後の公式行動になったと考えられている。 1873年恐慌の後で、有権者は経済問題に関心が深かった。マクリアリーは議会に対する最初の演説では経済問題が中心であり、行政改革の分野ではいかなる指導力も支持もほとんど与えられないものになった。後年、改革の重要問題に決定的な姿勢を見せようとしなかったことで、「両側の」マクリアリーや、「舌先三寸のジームズ」という渾名が付いた。マクリアリーの演説に反応して、州内田園部農業地帯出身の議員は法定利率の最大値を10%から6%に下げるよう提案した。その提案した議案は銀行家や資本家の怒りを買った。新聞、特に「ルイビル・クーリエ・ジャーナル」編集者ヘンリー・ワッターソンからも酷評された。最終的に議会は法定利率を8%にすることで妥協した。その他に資産税率を課税対象資産100ドルにつき45セントから40セントに下げる法案は、それほど抵抗もなく容易に成立した。地方に偏った効果を与える法よりも州議会は一般的な法を好むとマクリアリーが主張した事実があったにも関わらず、この会期の間に成立した法で州全体に衝撃を与えたものが少なかった。この事実も州内の新聞で広く批判された。 ケンタッキー川の航行性を改良する問題も、1876年の会期でジェイムズ・ブルー議員から何度も持ち上げられた。そのような投資から州が得られる多様な恩恵をブルーが約束したものの、無駄遣いを嫌う議員が改良に資金を割り当てる法案を潰した。この問題は2年毎の議員選挙で有権者の関心を惹き、1878年の会議でも議案になった。1877年のケンタッキー川航行性会議からの推奨に基づき、マクリアリーはその典型的な財政保守主義を捨てて、川の改良を望む側に加わった。これに対応した議会はほとんど無効な法案を通した。もし川沿いの地区で改良のための特別税が徴収されるならば、州はその改良を維持する資金を手当てするというものだった。 1878年の会期では、鉄道資産に対する税評価が他の資産に対するものに合うように提起された。農業経営者は法定利率が再度下げられ、前期に提案された6%になったことを喜んだ。経済と関わらない改革には、ケンタッキー大学(後のトランシルベニア大学)からケンタッキー農業機械カレッジ(後のケンタッキー大学)を分離すること、州の健康委員会を設立することがあった。地方の利益に関する法がこの会期でも多く、議会で成立した法の90%が該当した。 マクリアリーは、民主党員のジョン・スチュアート・ウィリアムズ、ウィリアム・リンゼイ、J・プロクター・ノット、および共和党のロバート・ボイドと共に、1878年にアメリカ合衆国上院議員の候補に挙がった。民主党は派閥争いに走り、当初は4人から1人に絞ることもできなかった。民主党議員の間で1週間以上も議論が続けられた後で、マクリアリー、ノットおよびリンゼイに対する推薦が取り下げられ、選挙でもウィリアムズがボイドを破った。歴史家のハンブルトン・タップはこの候補取り下げが議員の間のいわゆる取引によるものであるが、その詳細はあるとしても公開はされなかったと述べている。
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