ケンタッキー州知事としての1期目
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「アイザック・シェルビー」の記事における「ケンタッキー州知事としての1期目」の解説
新しい憲法の下で有権者が選挙人を選び、選挙人が知事とケンタッキー州議会上院議員を選出した。シェルビーは積極的に知事職を求めた兆候は無いが、1791年5月17日に選挙人の全員一致で知事に選ばれた。シェルビーは1792年6月4日に知事に就任したが、この日はケンタッキー州がアメリカ合衆国の州として認められた日だった。シェルビーは積極的に党派活動をしてはいないが、民主共和党員だと認識された。その任期の大半は基本法、軍事的な組織および税構造の設立に献げられた。 シェルビーの主要な関心の一つは辺境を守るために連邦政府の援助を仰ぐことだった。ケンタッキー州人はオハイオ川の北にいるアメリカ・インディアンと宣戦布告なき戦争をしており(北西インディアン戦争)、アメリカ合衆国陸軍長官ヘンリー・ノックスからはインディアンに対して攻撃的軍事行動を採らないよう命令されていた。さらに、州民兵の徴兵期間を30日間に制限する連邦規定の制約を受けており、あまりに短すぎて有効なものにはならなかった。新生間もない州の貧弱な資源ではインディアンの攻撃から最も脆弱な地域を守るだけで精一杯だった。一方、ケンタッキー州人はインディアンがイギリスに扇動され物資の補給を受けていると疑っていた。 シェルビーはワシントン大統領に援助を訴えた。ワシントンは"マッド"・アンソニー・ウェイン将軍を指名して、北西部領土からインディアンを追い出すように命令することで反応した。ウェインは1793年5月にワシントン砦(今日のオハイオ州シンシナティ)に到着したが、連邦政府のコミッショナー達が依然としてインディアンとの条約を結ぶべく交渉中だったので、即座の行動を執れなかった。ウェインはケンタッキー州から1,000名の志願兵を要求したが、これに応ずる者が少なく、シェルビーは強制徴募に訴えた。兵士達が到着した時までに冬が始まった。シェルビーは兵士達に家に帰り、春に出直してくるよう命令した。 インディアンによる攻撃が多かった冬に、シェルビーの弟エバン・シェルビー3世が命を落とすことがあった後で、ケンタッキー州民兵隊は1794年初期にインディアンに対して幾つか小さな勝利を挙げた。春にはウェインの軍隊要求に対する反応が熱心なものになった。1,600名の志願兵がグリーンビル砦に集まり、急いで訓練された。8月までに、ウェインはインディアンに対する攻勢を始め、8月20日のフォールン・ティンバーズの戦いで決定的な打撃を与えた。この勝利とそれに続くグリーンビル条約によって領土が確保され、シェルビーはこの条約で西部の開拓者に課された制限の幾らかには賛成しなかったが、その要求事項を守り、その統治下にあった者達に強制した。 シェルビーの任期でもう一つの大きな関心事はミシシッピ川の自由な航行であり、これは州経済の利益にとって重要なことだった。スペインは政治的な理由でニューオーリンズの港をアメリカ人に対して閉ざしていた。これはケンタッキー州の農夫が生産するタバコ、小麦粉および麻にとって自然の市場となるはずであり、陸路を通っての搬送は利益を出すには費用が掛かりすぎた。このことは土地投機家達にその投資に見合う利益を出させるためにこの地域に移民を連れてくることを難しくしていた。多くのケンタッキー州人は連邦政府がこの状態を改善するために決定的に、また素早く行動しないと感じていた。
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