宣戦布告なき戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 13:49 UTC 版)
1722年の1月も終わりに差し掛かるころ、シュートはラルを懲らしめるため、ノリッジウォックへの遠征に乗り出した。トマストンの大佐、トマス・ウエストブルック(英語版)の命令のもと、ニューイングランドの猟兵たちはラルの捕囚には失敗したが、教会とラルの住居を荒らしまわった。ラレは事前にこのことを通告されていたため、森へと逃げていた。しかし、ラルの所持品の中に金庫があるのが見つかり、その中に、ラルがフランス政府のスパイであることを裏付ける手紙があった。一説によれば、手紙は教会の扉に貼られていたとも言われる。それには、イギリス人の入植地への報復を示唆する内容がしたためられていた。 1722年3月の、ラルの教会と住居に対するイングランドの行為への応酬として、165人のミクマク族とマリシート族の部隊がミナス(現在のグランプレ)に集合して、アナポリスロイヤルを包囲した。包囲が継続していたその年の5月、ノバスコシア副総督のジョン・ドゥーセットは22人のミクマク族を人質にとり、アナポリスロイヤルへのインディアン兵の攻撃を阻止しようとした。 1722年6月13日、ラレの指示に応じて、アベナキ族はノリッジウォックを発ち、ジョージ砦を襲った。この砦は大尉のジョン・ガイルズの指揮下にあった。アベナキ族は集落の民家を焼いて、60人を捕囚した。 2日後の6月15日、ローヴェルジャ神父が、ペノブスコット族とマリシートによる、500人から600人の部隊を率いて、セントジョージ砦を12日間包囲した。彼らは製粉小屋と大型スループ船、様々な家屋を焼いて、多くの牛を殺した。入植者5人が殺され、7人が捕虜となった。一方でニューイングランドの兵士たちは、20人のマリシート族とペノブスコット族の兵士を殺した。襲撃の後、ウエストブルックは砦からの命を受けた。この後、ブランズウィックが再び攻撃を受け、ノリッジウォックへ戻った兵たちの目に、集落が燃えているのが飛び込んできた。
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