ブルガリアの計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 03:01 UTC 版)
「第二次バルカン戦争」の記事における「ブルガリアの計画」の解説
1912年、ブルガリアの民族主義はツァールのフェルディナントとブルガリア軍部が述べたように、1878年時点で過激主義的とされたサン・ステファノ条約の内容をさらに越え、東トラキア、西トラキア、テッサロニキを含むマケドニア全体、エディルネ、コンスタンティノープルまで含まれた。ブルガリアの指導部が早期から現実的な思考に欠いた証拠としてはロシアが第一次チャタルジャの戦い(英語版)と同時期の1912年11月5日にブルガリア軍に警告を発し、コンスタンティノープルを占領した場合はロシアが攻撃すると脅したにもかかわらずブルガリア軍が占領を試みたことが挙げられる。 ブルガリア軍はエディルネ占領(英語版)には成功したものの、フェルディナンド1世のコンスタンティノープルで戴冠する野心は第二次チャタルジャの戦い(英語版)で占領に失敗したことでその非現実さが明らかになった。さらに、トラキアとコンスタンティノープルの占領に集中したことで、ブルガリアは最終的にはテッサロニキを含むマケドニアの大半を失う結果となったが、これは容易には受け入れられず、フェルディナンド1世を取り巻くブルガリア軍部が元同盟国との戦争に踏み切る結果となった。しかし、東にトラキアの喪失を受け入れたくなかったオスマン帝国、北に激怒したルーマニアがいる状況で南のギリシャと西のセルビアとの戦争に踏み切る決定は冒険的であり、特にオスマン帝国が5月にオスマン軍の再編成を行うべくドイツの使節団を緊急に要請した状況ではなおさらである。6月中にはブルガリアがセルビア・ギリシャ間のブルガリアからの攻撃に関する協定に気づいた。6月27日、モンテネグロはセルビア・ブルガリア戦争が勃発した場合、セルビア側につくと宣言した。ルーマニアは2月5日にオーストリア=ハンガリーとのトランシルヴァニアをめぐる紛争を解決して軍事同盟を締結、6月28日に再度のバルカン戦争で中立に留まらないと公式に警告した。 マケドニアで主にセルビア軍とブルガリア軍の間の小競り合いが続く中、ロシア皇帝ニコライ2世はスラヴ人の同盟国を失いたくなかったため紛争を阻止しようとした。6月8日、彼は同じ文面の親書をブルガリア王とセルビア王に送り、1912年のセルビア・ブルガリア条約に基づく仲介を申し出た。セルビアは1912年の条約で得る予定だったアルバニア北部が列強の決定で独立してしまったため、1912年の条約を改正して北マケドニアのブルガリア領を補償として獲得しようとした。一方、ブルガリアのロシアへの返答は条件が多すぎて最後通牒の様相を呈し、ロシアの外交官はブルガリアがすでにセルビアとの戦争を決めたと結論付けた。結局、ロシアは激怒して仲介の申し出を取りやめ、代わりに1902年のブルガリア同盟条約を取り消した。というのも、ブルガリアはロシアがオーストリア=ハンガリーの拡張主義を防ぐために35年間かけて、多くの人命、資金と外交資本(英語版)を注いだバルカン同盟を打ち壊そうとしていたためであった。ロシア外相セルゲイ・サゾーノフがブルガリア首相ストヤン・ダネフ(英語版)に述べた言葉は「私たちから何も期待せず、1902年から今までの全ての協定はその存在を忘れてください」だった。ニコライ2世は直近の仲介でブルガリアとルーマニアに締結させたシリストラに関する協定をブルガリアが履行を拒否したことにすでに怒っていたが、さらにセルビアとギリシャによる、紛争を平和裏に解決する第一歩として3国それぞれの軍を4分の1削減する提案もブルガリアに拒否された。 ブルガリアではハト派のゲショフが辞任してタカ派で親露派のダネフが首相に就任したため、すでに戦争一直線であった。6月16日、ブルガリア軍部は宣戦布告無しでセルビア軍とギリシャ軍の陣地を同時に攻撃、また攻撃命令に反するすべての命令を無視するよう命じた。しかし、翌日に政府が参謀本部に停戦を命じるよう圧力をかけたことが混乱を招いたばかりか宣戦布告なき戦争の状態も解決できず、フェルディナンド1世は政府からの圧力に屈してサヴォフ将軍を解任、ラトコ・ディミトリエフ(英語版)将軍を総指揮官に任命した。 ブルガリアの目的はセルビア軍とギリシャ軍を撃破しつつ、列強が介入して停戦するまでにできるだけ占領地域を広げることだった。物量の優勢を確保すべく、ブルガリア軍全軍が戦闘に参加した。(公式に宣言された)ルーマニアの介入やオスマン帝国の反撃への準備は全くなされず、この2か国から攻撃されないことを何故かロシアが保証するという仮定がなされた。これは6月9日にロシアが激怒してブルガリアとの同盟を取り消し、外交でも親ルーマニアの姿勢を示した(ロシアは1912年12月にルーマニア王カロル1世をロシアの名誉元帥に叙した)にもかかわらずである。戦争の計画ではヴァルダル平原を進み、セルビア軍に集中攻撃して無害化させた上で北マケドニアを占領しつつ、同時にテッサロニキ近くで(セルビア軍の半分程度である)ギリシャ軍に対する攻勢に打って出(こちらは集中攻撃にはならない)、テッサロニキとマケドニア南部を占領することだった。ブルガリア軍部は自軍がギリシャ軍を撃破できる程度なのか確信を持てなかったが、最悪でも南部戦線を守備でき、北部でセルビア軍を撃破した後の援軍が到着するまで持ちこたえることができると考えた。
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