ブルガリアの対ギリシャ攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 03:01 UTC 版)
「第二次バルカン戦争」の記事における「ブルガリアの対ギリシャ攻勢」の解説
詳細は「キルキス・ラハナスの戦い(英語版)」を参照 イヴァノフ将軍率いる南マケドニアのブルガリア第2軍はドイラン湖(英語版)から南東のキルキス、ラハナス(英語版)、セレス、そしてパンゲオ山脈(英語版)を越えてエーゲ海まで続く線上で配置された。第2軍は5月よりこの配置であり、第一次バルカン戦争でエディルネ包囲戦を戦っていたため経験豊富な軍隊だった。イヴァノフ将軍は大敗の責任を回避するためか戦後に自軍が3万6千人しかおらず、多くの部隊が人員不足であると主張したが、これは第2軍の部隊を細かく調査すると間違いであるとわかる。イヴァノフの第2軍は第3師団から1個旅団を減らした人数、すなわちそれぞれ4個大隊で構成された4個連隊(合計で16個大隊と師団ごとの砲兵)、第I、第X旅団の第16、25連隊(合計で8個大隊と砲兵)、ドラマ旅団の第7、69、75連隊(合計で12個大隊)、セレス旅団の第55、56、57連隊(合計で12個大隊と師団ごとの砲兵)、第5国境大隊、第10独立大隊、第10騎兵連隊(7個乗馬中隊と7個歩兵中隊)で構成された。合計では58個歩兵大隊の232個中隊、1個騎兵連隊(14個中隊)、大砲175門で人数は8万(ブルガリア側の公式人数)から10万8千人(ギリシャ側の公式文献で、1932年以前の公式ブルガリア戦争史に基づく)だった。現代の歴史家の間ではイヴァノフが自軍の人数を過小評価していたが、ギリシャ軍の人数よりは少ないことが通説となっている。ギリシャの参謀本部もブルガリア軍の人数を8万から10万5千としている。 国王コンスタンティノス1世率いるギリシャ軍は8個師団と1個騎兵旅団(117,861人)と大砲176門であり、オルファノス湾からゲヴゲリヤ地域までの線上に配置された。ギリシャ軍の参謀本部にはブルガリア軍の攻撃目標を知る手段がなかったため、ブルガリア軍は攻撃に選んだ箇所で一時的な局地優勢を得ることとなる。 6月26日、ブルガリア軍はギリシャ軍を撃滅してテッサロニキに進軍するとの命令を受けた。しかしギリシャ軍はブルガリア軍の進軍を止め、29日に全軍反攻の命令が発された。ブルガリア軍はオスマン軍から鹵獲した大砲も用いてキルキスで強固な防御陣地を築いた。ギリシャ第4(英語版)、第2、第5(英語版)旅団は大砲の援護を受けて平原を前進してブルガリア軍に急襲、大損害を受けたものの翌日には塹壕を奪取した。ブルガリア軍左翼では第7師団(英語版)がセレスを、第1と第6師団(英語版)がラハナスを占領した。ギリシャ軍は第2軍を撃破したが、これは第二次バルカン戦争におけるブルガリアの最大の敗北である。ブルガリア側の文献では6,971人の損害、捕虜が6,000人以上、大砲130門がギリシャ軍に鹵獲されたとした一方、ギリシャ軍の損害は8,700人とされた。28日、ブルガリア軍と非正規軍は撤退している最中にセレスに放火した(セレスの北西はブルガリア領で南東はギリシャ領だった)。ほかにもニグリタ(英語版)、ドクサト(英語版)、デミル・ヒサル(英語版)が放火されたが、戦闘後にギリシャ軍がブルガリア領キルキスや周辺のブルガリア人集落に放火したことへの報復とされた。ブルガリア軍右翼ではギリシャ軍のエヴゾネスがゲヴゲリヤとマツィコヴォ(英語版)高地を占領した。これによりブルガリアのドイランを通る撤退経路が脅かされ、イヴァノフの軍勢が決死の撤退を敢行したがその実態は潰走に近かった。第14師団が援軍にきたが時すでに遅く、ストルミツァやブルガリア国境への撤退に加わるだけに終わった。ギリシャは7月5日にドイラン(英語版)を占領したが、ブルガリア軍のストルマ山道を通る撤退は阻止できなかった。11日、ギリシャ陸軍は艦隊の援護を受けてカヴァラで上陸、さらに内陸の西トラキアへ進軍した。19日、ギリシャ軍はネヴロコプを占領、25日には海軍と陸軍の連合攻撃でアレクサンドルーポリを占領、ブルガリアを完全にエーゲ海から切り離した。
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