ブルガリア公とモレッタ皇女の縁談とは? わかりやすく解説

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ブルガリア公とモレッタ皇女の縁談

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:41 UTC 版)

ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事における「ブルガリア公とモレッタ皇女の縁談」の解説

1884年フリッツヴィッキーの娘の一人であるモレッタ皇女バッテンベルク家出身ブルガリア公アレクサンダル恋愛関係になり、結婚希望するようになったヴィッキーはこの縁談積極的に推進したブルガリア公伯父であるロシア皇帝アレクサンドル2世意向によりブルガリア君主に擁立されていた人物だが、ロシア傀儡君主にされる事を拒否してロシア対立深めていた。ブルガリア公としては是非ともこの縁談成功させて後ろ盾欲しかったヴィクトリアバッテンベルク家バルカン半島における対ロシア防波堤看做しており、バッテンベルク家自分の子孫の縁談積極的に推進していた。1883年にはヴィクトリア三女アリスヘッセン大公ルートヴィヒ4世の間の長女ヴィクトリア・アルベルタがブルガリア公の兄ルートヴィヒ・フォン・バッテンベルクと婚約し、またヴィクトリアの五女ベアトリスもハインリヒ・モーリッツ・フォン・バッテンベルク(ブルガリア公の弟)と婚約した。 それに続いてモレッタ皇女ブルガリア公婚約成立すればロシアから「イギリスブルガリア接近ドイツ加担している」と疑われる恐れがあった。ロシアとの関係悪化恐れビスマルク策動によりこの縁談破壊された。ヴィッキーはこれを「自分のことイングランドから来た破壊者としか看做していないプロイセン人迫害行為」と認定したヴィクトリアヴィッキー支援すべくわざわざ訪独してきてこの論争参加したビスマルクヴィクトリア動きを「明らかに独露を離間する政治目的」と見て忌々しく感じていた。ヴィクトリア黙らせるためビスマルクは彼女に私的な謁見申し入れ、彼女と議論に及び、ついに結婚中止認めさせた。 1885年ウィリー皇子は「自分とハインリヒバーティ叔父招待でサンドリンガムを訪れた時、『鬼ババア』はブルガリア縁談話がお流れになったのを根に持って自分たちと会おうとしなかった」と外相ヘルベルト・フォン・ビスマルク報告している。 ブルガリア公アレクサンダル フリッツヴィッキーの娘モレッタ皇女

※この「ブルガリア公とモレッタ皇女の縁談」の解説は、「ヴィクトリア (イギリス女王)」の解説の一部です。
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